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見えない・・が・・何か・・・

いくつかの記事の中で、私の嫁は不思議な夢をみると書いてきた。
その夢物語はあまりにも不思議であり、記事を書きながら私自身も困惑しているのが実情である。

私は時に、神社に”答え探し”の為に行く。

なぜ?雨が降ったのか、止んだのか。
なぜ?ヘビが目の前を通るのか?
なぜ?そこにニワトリがいるのか?
なぜ?頭に風船が乗っている感覚があるのか?
時にはクロアゲハに導かれるように神社の鳥居をくぐり、
飛び交う無数のクロアゲハに遭遇したこともあった。

挙げればキリがないくらい、だがそれが何なのか私にはわからない。

しかしコレだけは確信している。
世の中には、俄かに信じられないが、見えない何かが存在している。

例えば、
あなたが”ありえない体験”をしたとする。
他人に話しても、到底信じてはもらえず、”気のせい””偶然”で大抵は済まされる。だがこれは信じる、信じないという話ではなく、
”体験”したかどうか。

それは唐突に現れた

私が中学生の頃、当時友人と塾に通っていた。そのいつもの帰り道にそれは突然現れた。
主要道路から少し奥に入った、住宅地にある大きめの駐車場の脇の坂道。
自転車を押しながら友人と会話していた。

後ろから何やら動く気配を感じた。

瞬間、隣の友人の顔色が変わり、会話が止まった。
友人は明らかに私ではなく、私の後ろを見ている。

何が起きているのか、すぐに分かったが振り返りたくは無かった。

次の瞬間それは私の右上上空を通り過ぎた。

それは燃えていた。燃えている。明らかに燃えている何かが音もなく、私を右上から追い越していく。あまりにも静かに、当たり前の様に。

全長は4mほど。燃えている球体のような直径は30cmくらいか。先端が発光し、その帯のような光が後ろに伸びている。
上下に揺れながら、まるで何処かに向かっているようなそれを、
私は ”ひとだま” だと思った。

不思議な時間だった。今までにない集中力を発揮し、見入った。
その先端は、まるで時空の境目に入っていくように少しづつ見えなくなった。

我に返った後、友人に
”見た?”とだけ言ったのを覚えている。
不思議とその後、私たちは静かになった。
”うわーっ、スゲー”ってな雰囲気ではなく、
友人も”あぁ…”と言って会話は無くなった。

別れ際、友人から”あれって、ひとだま・・・だよな?”と言った時、
私が見たものは、その時初めて”確信”へと変わった。

”信じる”とは何か?

かのイエス・キリストが12使徒に対し
”信じる者は幸いである”と言った。
12使徒でさえ、イエス・キリストを疑うという事。
つまり、”信じる”とは”幸い”なのだ。

ではなぜ?12使徒は弟子にも拘わらず疑ったのだろう。

自分は”見ていない”

信じるとは、”無条件に受け入れる”事であると思う。
誰しも体験すれば、疑うことはあれ、受け入れざるを得ない。

さらに”信じる”とは色々な解釈ができる。
と言うのは、時には”試練””愛””成長”といった状況によって
様々に。

これまで自分の中で納得させていた常識も知識も”体験”によって
崩れ去る。
不思議な体験とはそういうものであり、
それはある日、唐突にやってくる。

なぜそれは起きたのか?

今、思い返してみると私は不思議な体験をしていたにも拘らず、それが何を意味しているのか、何なのかさえ深く考えてこなかった。
漠然と”そうなんだろうな”くらいに考えていた。

ただ不思議な夢をみる嫁に出会って話を聞くうちに、もしかしたら、世の中には説明できない世界がやはり存在していて、そこには”見えない何か”が存在するのではと強く思うようになった。

最近強く感じていることがある。
それはあまりにも漠然としているが、
”この世の中は実は偶然ではなく、全てが必然で、それがその人にとって必要なことで、全てにおいて意味があるのではないか?”
という事である。

なぜそれは起きたのか?

信じられない・・・からだと思う。

ではなぜ?それは起きるのか?

信じるために・・・だと思う。



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