『哲学とは何か』 ドゥルーズ=ガタリ

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「内在平面」は、國分功一郎氏の説明によれば、「複数の要素の組合わせである概念が位置する場所」と言うことになる。なぜ、平面なのかは、概念は孤立しているのじゃないので、たぶん、幾つかの概念がひしめくには、位置というか場所が必要なのだろうか。論理空間という言葉を使われるが(國分興一朗『ドゥルーズの哲学原理』、p31)。

じゃあ、どうして内在なのかは、平面を越えて、詰まり超越して得られるものではない、という意味で、超越的じゃなくて内在てき、つまり超越論的なのだろう、そういう意味と思うが、分かりにくい。

「概念」を創造する哲学者の対抗者

哲学の概念の破産というとき、哲学概念の体系が変化しただけ、とドゥルーズ=ガタリは書いている(『哲学とは何か』、文庫版P20)。また、哲学の対抗者ということを言っている。社会学や科学認識も含め、いろいろな対抗者を想定しているようなんだけれど。とりわけ、マーケティングのコンセプト、これも和訳すると概念なのだろうけれども、そうしたものも含めて、概念を創造する哲学の対抗者という意味なのだろうか?それはそうなもかも知れない。改めて、『哲学とは何か』を書くくらいだから。

哲学が立ち向かうようになるのは、プラトン自身が想像だにしなかった対抗者であろう。最後には、情報科学、マーケティング、デザイン、広告など、コミュニケーションのすべての分野が、概念(コンセプト)という言葉そのものを奪いとって・・・(『哲学とは何か』和訳、P22)

よほど、嫌いなんであろうかね、マーケティングとかは、当時のフランスでいやなことあったのかな。コトラーのマーケティングは、悪くはないと思うのだけれど、やはり、哲学から見ると、そんなふうな対抗者と感じるのは、分からないでもない。概念の創造は、なりさがってしまい、「概念は売ることの製品でしかない」とまで作者に言わしめるほどである。

世界観・価値観を訴求するD2C

しかし、作者が書いた1980年代から、四十年後の2020年代にいる、ウェヴマーケッターたちは、例えば、D2Cのマーケッターたちは、ドゥルーズたちの真意はわからいが、価値観や世界観ということを言い始める。

例えば、『D2C』という本は、ドゥルーズ=ガタリが思い描くような要素は、いまもなおあるのかも知れないが、この本を単独で読み進めるとき、世界観や価値観ということからマーケティングを考えていく、そうした息吹を感じることさえある。

「表象=再現前化」への挑戦

ドゥルーズ=ガタリが、哲学の破産というとき、それは旧来の哲学についての破産であるだと思う。そして、旧来の哲学というとき、その哲学は、「同一性と矛盾」というヘーゲル主義に対する「差異と反復」の哲学ではないのか。これはドゥルーズが当初ひっさげた、「時代の雰囲気のなかにある」哲学である。つまり、「差異と反復」の哲学は、反ヘーゲルの哲学として「差異と反復」の哲学の概念を創造したということになる(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』kindle版、はじめに)。

ここで、破産を宣告された古い哲学としての「同一性と矛盾」のヘーゲル哲学は、「表象=再現前化の世界」から生まれるということであるが、この表象=再現前化について、次のような解説がある。

ドゥルーズはそうした「反復」運動の中で次々と浮上してくる「差異」と「同一性」の絡み合いをめぐる考察を進めていくことで、絶対的に同一なものとして現前する対象を再現前化=表象することを前提にした議論を展開する近代哲学に挑戦します。(仲間真樹『ドゥルーズ+ガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義』、P17)。

私にとっての他者、他者のとっての私

ここで、他者が気になる。ドゥルーズ=ガタリは、こう言うのである。

事実、わたしたちが他者を特別なひとつの対象と同一視するならば、他者はどうもはやすでに、この私たる自我に現れるものとしての他の主体でしかない。 (『哲学とは何か』文庫版、p30-31)

ここで、「こうした〈他者の位置〉は本質的になんであるのかという問題である」(p31)とあるが、何であるのか、と言う「アプリオリな概念」の必要性のは要請のより、「諸概念の本性について、その概念が答えているとみなされる諸問題についても、同様に秩序何変わってしまった」と言うのである。

つまり、「よく理解されていない、あるいはよく立てられていないと自分が評価する諸問題には対処するかたちでしか、概念を創造しないのである」(p32)。ここで、概念の創造と言うことが、は反語的な説明の中で、浮き上がってくる。

「概念」は、「問題」を指し示している

あらゆる概念は、あるひとつの問題、あるいはあるいくつかの問題を指し示している。すなわち、それがなければ概念が意味をもたなくなるようなその諸問題を、そしてそれが解かれるにつれてようやくそれ自身際立たせられたり理解されたりすることができるようになすなわその諸問題を指し示しているのである。(『哲学とは何か』p31)

私がここで気になったのは、「概念」と言うものが、問題を指し示すという言葉である。ドゥルーズは、哲学とは概念を創造する人と言っているが、例えば、『差異と反復』の中で、「純粋な差異」を創造したわけであるが、ここで、こうした創造された概念が、問題と問いかけに結びつているということである。

ドゥルーズは、差異という「概念」と「問題」を結びつけながら、次のように説明をしている。

けれども、私たちの信じるところでは、諸問題がおのれに固有な定立性の段階に達するとき、また差異がその段階に対応そた肯定の対象となるとき、その後諸問題はある攻撃と選別の力を解き放つのであり、(『差異と反復 上』p14)

差異と反復による意味作用について