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「見返りを求めない」なんて、ないなーと気づいた話。

一生懸命な人のことは、手伝いたくなる。自分が役に立てたら嬉しい。


ふと思う。

「役に立てたら、本当に嬉しいのか?」

今までの自分を思い返して「相手のために」という気持ちから、時間や手間をかけた事々の中で、モヤっとした過去や今を振り返る。

それは、何年も前のこともあれば最近のこともある。なんでモヤモヤとしたのか理由を突き詰めれば、答えは簡単で。

(自分が想定していた)見返りがなかった


理由はシンプルだ。

善意(だと思って)行動しているのに見返りを求める自分は、人として器が小さい気がして、そのことをずっと認めなくなかったんだなー。

見返りとして欲しいのは、「感謝の言葉や態度」だったり、私が費やした時間や経験分の「お金に相当するもの」など。

どうやら私は、相手が「私の時間を使った」ことに関して配慮がないことを根に持って、腹を立てていたみたい。

そして気づく。

「相手のためになれば嬉しい」と思っていること自体が錯覚だ

あとでモヤっとするなら、そもそもやらなきゃいいわけで。なんで手を出したのかと元をただせば、それは単なる承認欲求。

誰かに影響を与えたい、認められたい、感謝されたいなど。「相手のため」というのはおこがましくて、全ては自分のため。

だから(自分が想定している)反応が返ってこないと、もれなくモヤモヤがつきまとう。私はこんだけ時間を投資したのに、と腹を立てる。

*

やっぱり、「タイムイズマネー」だ。自分の時間を使うということは、自分の財産を投資しているわけで。

財産を捧げているということは、そこに対等な価値を求める。等価交換。ただ一方的に消費されることには耐えられない。

*

結局のところ、全ては自分に原因がある。

等価交換を避けて(ちゃんと主張をしないで)、

相手には、いい人ぶる。自分に対しては、「この時間や機会は、自己実現・自己成長の場」だと頭の中で言い訳して、自分の行動を納得させようとする。

そういうの、やめよう。
ちゃんと等価交換しないと、バランスがおかしくなって当然だ。

と、昨日お友達と話している会話から気づいた話。

*

読んでくれて、ありがとう。


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