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誰の人生も要約させない。私も、あなたも。

MRI検査を受けたところ、最初12センチと診断された子宮筋腫は正確には15センチであったこと、さらにその後ろに6センチの筋腫が隠れていたこと、卵巣の腫れが見つかった。なお卵巣の腫れは悪性のものかは現時点では不明である。

9センチの子宮筋腫が見つかってから2年。
漢方、お灸、冷え取り。そうした代替療法は結局、自分には効果なしだったようだ。

病院の先生は「これだけ大きな腫瘍を取り出すのは負担が掛かりますから、まずは強めのホルモン療法で筋腫を小さくしましょう。それから大きい病院で手術をして取り出すのが良いかと思います。ホルモン治療は肝臓と骨がやられますが、致し方ありません」と言葉を選ぶように、しかし淡々と今の現状を告げた。

お会計を済ませ、薬局に行かないといけなかったが、なんだかもう全て嫌になってしまってそのまま近くのサンマルクカフェに入った。

3月だというのに真冬のような曇り空を歩いていたせいか、あたたかいものが飲みたかった。そしてチョコクロが美味しそうだったので、ホットのカフェラテとチョコクロセットを注文。甘いものを取ってると筋腫になるとアメブロか何かで見た気がしたが、何もかも、もうどうでもよかった。

なぜ自分だけがこんな目にあうのだろう。

本当にしんどいとき、人は自分だけが窮地に立たされているような気になってしまう。人には人の地獄がそれぞれあるというのに。

母に電話しようかとも思ったがやめた。「それで、子どもは産めるの?」とそっちの心配だけをするに決まっている。ちょうどその時カフェの前を、かわいらしい赤ちゃんを抱いた30前後の女性が通った。とても幸せそうに自分の目には映った。

誰かに相談しようかとスマホを取り出したが、説教されそうな気がして電源ボタンを強めに長押しして電源を切った。「わかる、わかるよ仁美ちゃんの気持ち。でもね・・」「これも仁美さんのために言ってるのよ」。過去アドバイスという名で心を殴られた場面が走馬灯のように思い出される。いいや、この気持ちは誰にもわかるものか。わかってたまるものか。

マグカップの取っ手を強く握りしめていた時、ふと小学校の時の平和学習のことを思い出した。

私の行っていた小学校は平和学習が盛んで、授業中はだしのゲンをアニメで見せたり、6年生の修学旅行先は広島の原爆資料館であった。

その授業の一環で戦争体験者の方のお話を聞くという体験も多くさせてもらっていたのだが、ほとんどの方が「あの日のことは、体験してない者にはわかりっこない」と言って話を締めていた。

子どもの頃は「わかりっこないとわかってるのに、どうして話をするのだろう」なんて疑問に思っていたりもしたが、今ならわかる気がする。「お前なんかにこの苦しみはわかりっこない」と「わかってほしくない」は決してイコールではないのだ。

人は「自分のことは自分が一番わかっていたい」という願いのようなものがある。それは裏を返せば「自分のことを簡単にわかってほしくない」ということでもある。

文章学校では文章はまとめずに、できれば唐突に終わらせることを推奨としている。それは人生は到底まとめられるものではないし、もっと言えば「誰の人生も要約してはいけない」ということなのではないだろうか。

その人の気持ちは、その人だけのものである。天が与えた、その人にとって必要な学びのための感情で、それは家族でも近しい人でも完全に理解することはできない。

だからこそ、人の痛みには敬意をもって寄り添う必要がある。「あなたの痛みは私にはわからない。でもわかりたいと思っている」という姿勢でいることが、違いすぎる人と人が共に生きていく道なのかもしれない。

カップの底に1センチ残っていたカフェラテを飲み干して、店を出た。
この状況にまだ何の意味も見い出すことはできないが、曇り空の隙間から太陽の光はほんの少しだけ差した気がした。