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やさしい人は損ではなく、徳を積んでいる

東京・オフィスビルのエレベーターでは人が降りた後「閉」を押すというシステムになぜかなっている。
正直「閉」を押したところで数秒しか変わらないのだけれど、1刻1秒を争うビジネスの最前線では、その数秒が惜しい感覚になるらしい。

逆に「閉」のボタンを押さないと微妙な雰囲気になる。これまで自分が最上階のオフィスだったこともあり、なるべくエレベーターに乗った時はボタンの前に立って積極的に「開」「閉」を押すようにしていた。自発的エレベーターガールである。

ドアを開けておいてあげると「あ、どうも」とか「ありがとうございます!」と言ってくれる人もいる。
だが中には「4階!」と命令するように自分が降りる階を押すように言ってくる人も、当然だろうといった顔で降りていってしまう人もいる。

自分にスペースがあるときはまだいいのだけど、体調が辛い時などは密室でそうした人のためにボタンを押すのが辛くなる。押さないで後ろの方にいると、やっぱり優しそうな人が急いで押してくれる。
別に遠慮しなくてもいいのに、そういう瞬間は心優しい人に仕事を押し付けてしまったようで、申し訳なくなる。気が付いてしまう人というのは何かと損だなあ。

・・と思っていたけど先日ミュージカルファンの友人と話をしていた時、友人が「どうかあのチケットが当たりますように・・大人しく徳を積んで待ちますから・・」と祈っているのを聞いた時、もしかして自分は損をしているのではなく徳を積んでいるのかもしれないと思った。

一定の年齢以上の方は、おじいさんおばあさんが太陽に向かって拝んでいるのを見たり、あるいは「お天道様が見ているよ」と言われたことはないだろうか。日本には八百万の神様がいるが、そのトップオブトップが太陽の神、天照大神だ。

「お天道様」というのは太陽を神格化しているというより、天地をつかさどり、全てを見通す超自然的な存在のことを指している。

野球の大谷選手も野球選手として成功する要因の1つに「運」をあげ、ゴミ拾いや挨拶などは積極的に行うということだった。超人的な活躍をしている人の言葉を聞くと、どうやら目に見えない大きい存在は、本当に人のことを見ている気になる。

ある時代劇の漫画で「願いごとがある時だけ来られても、人の心は動かぬ。普段からつけ届けは欠かさず、ここぞという場面で大きな贈り物と共に願い出るのよ」という台詞があった。
これはきっとお天道様も一緒で、普段から徳を積んでいる人だからこそ、その人の人生が大きく動くタイミングで「この人間の力になりたい」と、天も力を貸してくれるのではないだろうか。

私は特に信仰はないけれど、よく近所の神社に神頼みをしに行く。
「イケメンと結婚させてください」「ある日パッと筋腫が消えてますように」と無理難題ばかり要求するのだが、神社でお祈りしているとなんとなく「あなたのことは私が守りますから」と言ってもらっているような気がして、徳を積まねばと思うのだ。

私のやったことが回り回って誰かのためになるのなら、と思って、今日も自発的エレベーターガールをしている。