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NVCな文章術 ~疑問文の使い方~

お正月明け、職場のメールを立ち上げると年上の後輩からこんなメールが届いていた。

「書類発送をしなければならないのですがやったことがないので、年明け小澤さんには郵便局までご同行願います。」

「ご同行願います」と言われたのは、おそらく生まれて初めてだった。
刑事ドラマの中では聞いたことがあった。そうか、もしかして私は何か事件の容疑者になったということだろうか。いやまだ今年は何もやらかしてないはず。。そんなことを考えながらも力なく「了解しました」とだけ返信した。

人は、自分のことは自分で決めたい生き物だと私は思っている。
例えばレストランでも一つのコースしかない店より、野菜のコース・魚のコース・お肉のコースと、3つくらいメニューがある店の方が繁盛するというエビデンスもある。それだけ人は自分で決めたという実感を大切にしているということだ。

ご同行願います、と言うのが悪いことではない。でもご同行願いますか?と、行くか行かないかの決める権利は相手に渡した方が、より聞かれた方も心穏やかに「ええよ、行ったるで」と返せる気がする。

文章でも疑問文を使うと、文章にスペースを作ることができるのでおすすめだ。
例えば文章の途中で「なぜ人は働かなければならないのでしょう」などと問いを投げると、読み手は階段の踊り場で小休止するように、ちょっと立ち止まって自分で意味を見出そうとする。

一点だけ文章で疑問文を書くとき気を付けたいのが、質問が詰問になってないかという点である。

「突然ですが質問です。あなたのお部屋は片付いていますか?」

この手で始めるブログはとても多いが、片づけが苦手な読者はこの質問を読んだとき、痛いところを刺されたような、まるで責められているように感じる人もいる。

この文章であれば「なぜ人は、部屋を片付けても散らかしてしまうのだろう」といったように、人類全体にむかって問いかけるようにすると良い。
こうすると「読者を詰問したいのではなく単に問いかけている」という書き手の姿勢を示すことができる。

プロのコラムニストは炎上しない。それは自分の言葉が相手を追い詰める可能性があるという自覚があり、こうした細かいテクニックを多用しているからだ。言葉のプロは文章に道を多く散りばめる。そうすると読み手は道を、答えを自分で見出すことができる。

非暴力コミュニケーション、コーチング、対話と、平和なやりとりを研究する手法が近年多く生まれてきた。
どうにかしてライティングとこれらを組み合わせ、読み手と書き手が深くつながるような文章術をもっと生み出していきたい。