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尻尾、『炸裂志』、あるいはストレス管理とタピオカ

かつて我々は、喜怒哀楽に合わせてフリフリしたりシュンとしたりする尻尾を持っていた。しかし、他人を騙したり欺いたりするのに不都合であったことから、自ら切り落としてしまったのだ。他人を傷つけるためであれば、自らを傷つけることをもいとわない存在。それが我々だ。

まったく、なんて愚かなことをしてしまったんだ。

幼少期の性的抑圧や、克服された原始の信念といった類にはみじんも心当たりがないが、僕は尻尾へのノスタルジーを感じている。

尻尾さえあれば、我々はもう少しまともでいられた。

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そう、それで僕は就職活動にうんざりして、次の瞬間にはAmazonで閻連科の『炸裂志』を購入していた。当の作品はすごく面白かったので、いっそ中国文学の研究者になってやろうと決意したわけだ。それからいくつか手違いがあって、今は写真論を研究している。道中にはいくらか面白い誤配もあったが、ひとたび過ぎ去ってしまえばことごとくしょうもないショートコントたちだ。

『炸裂志』は、『百年の孤独』を盛大にパクり、経済解放期の中国を殺意のごとく描き倒した怪作だ。僕はこの作品について卒論まで書いたわけだが、『炸裂志』がここまで僕に“刺さった”のは、ほかでもなく、当の作品が清々しいまでにクリシェまみれだったからだ。そこで、マジックリアリズムという南米生まれの創作スタイルは、「中国化」という換骨奪胎を経て、奇怪な怪獣として提示されている。一連の共犯者には、莫言、高行健、鄭義らの名前が挙げられるだろう。ある時期の中国文学において、魔幻现实主义は一振りするのにちょうどいいスパイスだったのだ。

ただし、『炸裂志』ほどラディカルに開き直った作品は、類を見なかった。それは、クリシェであることになんら引け目を感じることもなく、「さぁ、読むがいい。わたしを罵るがいい。」と言って読者を煽る始末。それはともかくクールだった。

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ところで、来日した閻連科氏とシンポジウムで話す機会があった。「あなたの作品を研究しているんです」と言った僕に、「なにか質問があれば」といって彼は連絡先をくれた。後日、つたない中国語でメールしたが、返事は来なかった。

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我々にとって大きな不幸の一つは、「ストレス管理」を謳う啓蒙的コンテンツの多くが高価な上、副作用を伴い、搾取的で、なによりストレスフルであることだ。

大抵のストレスは主体性の失調から生じる。こうしたい、こうなりたい、俺ならできるはずだ、という意気込みは、諸事情によって妨げられる(まったく諸事情というのはどうにもならない)。まぁ、そこまでは仕方がないとして、問題は件の「ストレス管理」だ。そういったものに飛びつく人たちはストレスの根本的な原因を分かっておらず、よかれと思ってそういったものを勧める人たちは至極的外れであり、私利私欲のためにそういったものを切り売りする連中はことごとく悪である。

大きな大きな台風がなにもかも吹き飛ばしてくれると期待した人たちは、さぞがっかりしたにちがいない。

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ノスタルジックな自傷行為として、味噌汁に白米を混ぜて食べてみた。すごくノスタルジックだった。Vaporwaveみたいなパチもんではなく、正真正銘のノスタルジー。

そういえば幼稚園児のころ、クラスにかわいい女の子が居て、同じ班で昼食を食べていた際、かの女が白米にお茶を混ぜていたのにドン引きした経験がある。まったく、味噌汁に白米を混ぜる分際で、人様に幻滅するとは大したダブルスタンダードだ。幼稚園児の時分ながら、僕はあのときのことを恥じている。

ところで僕は誰からなんと言われようと、味噌を溶かすのに火を止めたりしない。文句があるのなら目黒まで来い。僕はここにいる。

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タピオカミルクティーは美味しいが、高いので、僕はめったに飲まない。

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