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中国のおばさん、3点バースト、あるいは表象文化論とトマト

忘れないために書く人もいれば、忘れるために書く人もいる。僕は後者だ。すべてを脳内に詰め込んだまま生活するのはしんどい。ただでさえ、掃除に洗濯、自転車の空気入れ、PCのクリーンアップ、入り込んできたクモの駆除など、やることはたくさんある。

僕が本心から携わりたいと思っているのは、そういった日常の細々とした作業であり、擦り切れんばかりに繰り返され、クリシェと化したルーティンである。ミルでコーヒー豆を削ったり、Tシャツにアイロンをかけたり、YouTubeできまぐれクックかねこを見る、などなど。

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そういえば、数年前にGTD(Getting Things Done)と呼ばれるライフハックが流行っていた。やるべきタスクを片っ端から書き出し、紙のノートやEvernoteに放り込む。頭でもやもやと考えるのをやめ、外部のシステムに思考の拠点を移行するのだ。こいつは気が利いているぞ、と思い、当時高校生だった僕は、収集/処理/整理/見直し/実行のGTDワークフローを全面的に採用した。システムがうまく行っている間は、すごくフィールグッドな気分でいられた。成績も上がったし、交友関係もうまくいった。そうでないときは、そうではなかった。そうでないときはすごくしんどかった。

ということで、僕のGTDはかたちを変えて帰ってきた。テクストは、機能性を失ったかわりに、公共性を手に入れた。いずれにせよ、ミニマルを目指すことに変わりはない。僕は、自らの健康のために、朝の公園でエアロビを踊る中国のおばさんと同じ類だ。わが血脈には中国四千年の歴史が流れている。

中国人のおばさんたちは、忘れるために踊る。僕は忘れるために書くのだ!

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断章が好きだ。多くの断章はまるっきり悪意の産物なので、期待もないし、失望も少ない。少なくとも、僕は冗談の通じる人間でいたい。

FPS愛好者なら常識であるが、連射し続けても命中精度がアレなので、敵には全然当たらない。確実に命中させるには、2~3発で区切って、リズムよく狙い撃つのが定石だ。断章形式のテクストとは、3点バーストに改造したFA-MASである。

断章はクリティカルでありつつ、無責任でいられる、居心地の良い形式だ。ここはインターネットなので、ちょっとしたことですぐに怒られるが、みんな本心から怒っているわけではない。

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"身体"なり"欲望"なり、好きな二字熟語を決めて、四方八方に振りかざせば「批評」が書ける。言葉を前にして、作品はひれ伏す。控えい、控えい、この紋所が目に入らぬか、といった具合だ。

イケてる哲学者は、みなオリジナルの概念をたずさえている。デリダの脱構築、フーコーの生政治、ハイデガーの世界内存在、ベンヤミンのアウラ、ドゥルーズのリゾーム、ラカンの鏡像段階、バトラーのパフォーマティヴィティ、その他もろもろ。いずれか気に入った概念を引用して論じた「批評」であれば、なおのことよしだ。

自分自身で新たに概念を作り出してもいい。僕だったら「大爆発(super-boom)」とかがいいなぁ。「ベルイマン映画における大爆発:『叫びとささやき』を中心に」。ウィキペディアの「主要な概念」欄に載せてくれ。

とかなんとか思っていたらふと思い出したが、表象文化論学会が発行している『表象』誌に、「爆発の表象」というのがあったな。こりゃ先を越されてしまった。



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好むと好まざるとにかかわらず、表象文化論という分野にはそういった「遊び」の側面があり、「批評」と「研究」の境目は曖昧だ。専攻内の噂によれば、ガクシンに通った先達はほとんどいないらしい。さもありなん。

「批評」とは存在が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を演じる徹底して表層的な体験にほかならないそうだが、僕には「存在が過剰なる何ものか」も「荒唐無稽な遭遇を演じる」も「表層的な体験」もなにがなんだかさっぱりだ。『老人と海』について語れるのは、「キューバの漁師がカジキを取りに行く」ということだけだ。

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しかし、これが表象文化論のステレオタイプであるならば、ヒョーショーも変わりつつあるように感じる。友人のなかには、こつこつと実証的な歴史研究をしている学生も少なくない。ヒョーショーにおいて表象文化論らしからぬ研究をすることは、それ自体きわめて表象文化論的な身振りであり、脱構築の実践である。これは半分ジョークで、半分は真面目だ。

なんとも奇妙な専攻だが、面白そうだと思いませんか? ということで、僕みたいに表象文化論へと「迷い込む」後輩たちを楽しみに待っている。そうそう、4月からM2だ。

そんなことよりもヒョーショーの悪いところは、学生室のハウスダストである。アレルギー体質の僕は、行くたびに鼻水が止まらなくなる。

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今日はトマト卵炒めを作って食べた。トマトと卵を炒めるのはすごくいいことだ。とりわけ、東急ストアの朝市で安く手に入れたトマトであれば。

普段、トマトはすごく高いので、誰にも買わせる気がないんじゃないかと思ってしまう。しかし、トマトがないことにはトマト卵炒めも、生ハムとトマトの冷製パスタも、インドカレーも作れない。となると、我々はそれらの食事なしでやっていくしかない。

いずれにせよ、トマトの値段を気にするのはすごく楽しいので、それ以外のことが手に付かない。

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