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12月の記録

年の瀬が迫り、もうすっかり寒い。11月から12月にかけては一段と時の流れが速く感じる。けれど年度末よりはなんだか猶予がある。どうせあと少しで今年も終わるし、と思うといっそ力も抜けていく。

この寒い時期になると思い出して欲しくなってしまう香水がある。私は香水が好きだ。香水の瓶も、使う仕草も、それぞれの香りが持つコンセプトやイメージも美しくて好ましい。
その香水はある記憶を強く呼び起こす。ハートの小瓶に入っていて、その小瓶は青いすりガラスのような質感をしていて、中身の香水は柑橘系の香りがした。

当時文房具売り場でシャーペンやボールペンとコラボして売っていたそれは、私が買った初めての香水だった。
はじめはただのいい香りとしてしか認識していなかったけれど、私に好きな人ができてそれは変わった。

学校に行く前、携帯でやりとりをして、香水をほんの少し指先に出して気が付かれないようにそっと足首にすり込んだ。指先に残った香りを吸い込むとさわやかに甘かった。彼にその香りを指摘されたことはなかったし、彼がそれと似た香りをまとっていたこともなかったはずだけれど、彼を想いながらつけた香りは、私にとってときめく香りになった。

近所のドラックストアにも置いてあるようなありふれた香水だけれど、あるのは透き通った瓶ばかりで私が懐かしいと思うすりガラスの瓶は長らく見かけていなかった。もともと持っていた香水は確か使い切ってしまった。もう彼のことは思い出すこともないけれど、つけていた季節が冬だったからなのか、今の季節になるとなんとなく探してしまう。

ネットストアで探してみると、香水はなく、ボディミストのみが売られている。値段は500円で安価だったけれど、送料はそれ以上かかるのでカートに入れたまま「注文する」のボタンを押せない。
大きなディスカウントストアにはあるかと香水の棚を探した。あるのはやはり透き通った瓶ばかりだった。

雑多に陳列された店内では見逃してしまうこともあるかもしれないと、店内を丹念に見て回ったが、やはりない。足と目が疲れてしまって、ネットで買おうか、それとも諦めようか、ともう一度香水の棚に戻ってきたときだった。

同じシリーズの香水が置かれている列の1つ後ろの列。広い店内の隅の一番下、埃さえたまって見えるそこに、探していたものとよく似た青い小物が置いてある。

4つあったそれは、商品の説明もされていなかったし、パッケージに割引や盗難防止のための包装がしてあって、商品名称すら読めなかった。1つひとつ見ていくと、その中に1つだけ名称が読み取れるものがあった。私が探していたもので間違いなかった。

家に着くまで待ちきれずに、店を出てすぐ包装をもどかしくはぎ取って透明なキャップを外し、鼻元へ近づけた。その途端、懐かしくて、恥ずかしくて、もどかしくて、暖かくて、何とも言えず心が締め付けられるような心地がした。あまりにも記憶の中にある香りそのままだった。

思わず、「あー……」と気が抜けた声が出て、その場にしゃがみこんでしまいそうになった。あのときは苦しかった。学校で出される大量の課題、予習。母が働き出して家事をすることが増えた。部活動や委員会は大変ではなかったけれど、やることは多かった。友人の仲たがいに翻弄され、習い事にも励んだ。忙しかった。
そして何より、大学進学では実家を離れ、親戚どころか知り合いの1人もいない場所に住もうと決断し、少しずつ自分の居場所がなくなっていくような感覚に付きまとわれていた。

その日々に、この香りと恋があった。覚えている。まるでドラマみたいに雨が激しく降る中に、彼が現れてくれたこと。部活の後輩に慕われて、彼らに私と話しているところを見つかってしまって、居心地悪そうにしていた顔。甘いものは苦手なのに、ホワイトチョコレートが好きで、書く字は少し角ばっていてきれいだった。彼は私の右側の席で、よく横顔を見ていた。そのことに気づいて口角をあげ、いたずらっぽく細める瞳が好きだった。

ただ臆病だっただけかもしれない。卒業式で彼と話した時間もあったけれど、そこでも何も進展はしなかった。ただ、互いに話題にしてこなかった進路先の話をした。私が遠くに進学することを知った彼は、自分とは反対方向だと笑い、記念に一緒に写真を撮ってほしいと言った。
その写真は私には送られてこなかった。

ときどき思う。私は、高校生の私に認めてもらえるのだろうか、と。
あのときの私は、強かった。多忙な日常の中、心細い思いもあったはずなのに、第一志望の大学合格を目指し、1人で暮らすことを決めていた。
20代半ばでも高校生だった私から見たら、立派な大人だろう。あのときの私が努力して、そうしてこんな大人になったと知ったら、失望してしまうのではないか。

しかし、この香りのせいなのか、こちらを睨んでいる高校生の私の像が揺らぐ。あのときの私だって、今と変わらず、いやむしろ今よりずっと悩んだり、迷ったり、不安になっていたことだろう。
そのことをこの香りは思い出させてくれた。

かたくなに思えるあのときの私に、この香りがあって良かった。すっきりとさわやかで、その中に甘さのある香り。華やかさというよりは、澄んだ雰囲気がある柑橘で、でも柑橘らしい苦さはあまり感じない。高級感がある香りとは言えないだろうが、軽やかさがある。

日々の生活に追われていると、あまり過去を振り返る時間は少ない。
しかし、久しぶりに懐かしい香りを嗅いだら、過去があまりにも簡単に、それでいて鮮明に蘇った。
そしてその鮮明さは、予想外にも広範囲に渡っていた。私にとってこの香水の香りは、何より当時好きだった相手の記憶と結びついているものだと思っていた。しかし違った。最初に思い出したのは、高校生活の日常の記憶だった。
予期せず唐突に浮かんだ記憶は、その当時の自分がもがいていた証のようなもので、あまりいいものだと思えなかったが、それでも過去の自分へ持っている私の一方的な劣等感を少しずつほどいていった。

高校を卒業してから、もう5年以上の歳月が過ぎた。
振り返れば毎日が早く、過ぎたことはなんでもないことのようにも、どれもがいい思い出のようにも思える。
でもきっとそうではないのだ。
時間の流れる速度は変わらず、私は膨大な量の時間をいろんなことに使ってきた。それぞれの出来事に苦戦し、もがき、必死で乗り越えてきた。
香水の香りは、今の私にとって一言で表すのであればやはり「懐かしい香り」になってしまう。それだけの時間が過ぎたのだ。

自分の真上の空間にシュッとスプレーを振ってみる。途端簡単に香りに全身を包まれた。
目当てのものが買えた満足感と幸福感は損なわれないまま、少しの寂しさがあった。
しかしそれは変化で、私は成長しているとも考えられるのではないだろうか。

ときおり現在の自分を確かめるために、このボディミストはずっと手元に置いておきたい。それは、あのとき頑張っていた自分を認めることにもなるような気がする。
つややかな容器を両手に包むと愛おしさがこみ上げた。そっと表面をなでてみる。
根拠も何もないが、安心できた。
そっと小物入れにしまう。容器が室内の明かりを柔らかく反射していた。

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