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トゲを抜いたら、ただのネズミ。


FWの旅も大詰め、最後のフリー期間一ヶ月になってしまった。
この期間は今まで撮り残していたものをもう一度撮りに行ける。
自分の好きな国に行っていい。と、言っても今まで行った国だけだが。

私はもちろん、インドに行きたかった。
もう一度あの風を感じたかった。四日間じゃ足りなすぎたんだ。
しかし校則上どうしても女性一人で回ることは禁止されていた。
「もし行きたいのであれば、同級生をもう一人連れて行け」とのこと。
他人の作品を邪魔してまで行ける勇気なんて持ち合わせてなかった。

なので、もう片っぽの大切な国、というか家庭にお邪魔することにした。
中国の内モンゴル自治区。ここは同じ学校の先輩の嫁さんの家庭で、
偶然弟さんが日本に留学していたこともあり、日本語も堪能である。
ここの家族は、全く関係ない私をすぐに家族のように受け入れてくれた。

さて、「何を撮ればいいのかな」


一時帰国の審査の度にどんどん自分が分からなくなる。
写真だけではない、自分の今までの生き方まで疑問を感じてしまう。

自分が撮りたい写真、残したい写真、見て欲しい写真。
誰かに見せるまでは大好きな写真たちなのに、
私はどうも『評価』というものに自分の意見まで左右されてしまうのだ。
割と今まで自分勝手に、良く言えばアーティスティックに生きていたと
自負していたのに、それすら評価を気にした行動だったのか?


「自分は他人の意見で構成されてるもの」
と、私の友人は言ってくれる。私もそれに頷く。
だったら否定ばかりの人生だと、それは存在否定にも至極似ている。
一体どこを探せば、本当の自分が見つかるのだろうか。

そもそも本当の自分なんて本当は居るのか?

私は様々な事柄に対して、大変素直だ。嘘をつかない、つけない。
嫌いなものは嫌いだと言うし、好きなものは心から好きになる。
その間にある「どうでもいい」ことに対してなんて、心底どうでもいい。

例えば、大嫌いなピーナッツを少しでも食べると吐き出す。
苦いコーヒーを大人ぶって飲むと腹痛で動けなくなる。

嫌いな人と関わったその日なんて、
シャンプーをしているだけで髪の毛がごっそり抜けてしまう。
あぁ、自分の体はなんて自分に素直なんだろうって。いつも感心する。

今の文章で気づいた人もいると思うが、
私だって嫌いなものを好きと嘘をつける大人になりたい。
しかし、体がそうさせてくれないのだ。

私は私自身にまで嘘を固めて日々過ごしている。
もし体にまで素直になってしまったら、どうなってしまうのか?

吐きたい時に吐いて、寝たい時に寝て、
心が満たされるまでセックスライフを続け、
子供が生まれたら父親までをも栄養の為に食べて。
嫌いな人が近づいたら自分の全てをトゲで埋めてしまえる。

まるで、本能的にしか生きることが出来ない動物のようだ。
近づくだけで敵意が丸出しの嘘がつけない存在。

私の体自身は、ヤギにでもなりたいのであろうか。
だからこんなにも動物に惹かれて追いかける?

羨ましいよ、君たちが。
君たちは「死にたい」なんて思ったことすらないんだろう?

牙がないライオンだって
翼のないハゲワシだって
トゲがないハリネズミだって
みんな「生きたい」としか思っていない。
そんな彼らが、とてもカッコよくて美しい。

死にたいって思う自分に嘘をついて「生きたい」だなんて
そんなことを思ってしまう時点で、人間的だよな。

自分は自分の撮りたいものを撮るだけ。
周りから見放されようと、別にどうでもいい。

「写真家とは孤独な生き物だ」って
あなたが言ったんじゃないか。まさにその通りだよ。

最高の写真家にはなれなくても、最高の自分になれるように
最期を笑って迎えられるように。それだけで十分じゃないか。

写真という媒体が、これからも一生残るからって
歴史的一枚だとか世界を変える決定的瞬間だとか
そんなもの私の人生においては「どうでもいい」

私の人生を残して、それを見てもらって
まるで長編の小説を読んでいるかのように
私と写真の人生を私以外の人にも楽しんでもらえたらいい。

それだけで私は十分幸せだ。

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