見出し画像

「かんぺきなわがまま」について

私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、すると私は「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの

引用は、言わずと知れた村上春樹氏の名著「ノルウェイの森」の一節だ。主人公の大学の友人である緑が、主人公に対して「わがまま観」を説くシーン。あらかじめ言っておくと、私はこのシーンが大好きである。

ここでの緑は、一見するとなかなかラジカルなことを言っている。自分のわがままを通すために、主人公に多くの犠牲を強いる。そのうえ、達成した要求さえも、ぽいと捨ててしまう。まるで召使に命令をするお姫様だ。

しかし私は、誰しもがこの感情の萌芽を抱えて生きているのではないかと思っている。度合いはさておき、自分を圧倒的に許容してくれる人がいて欲しいと思うのは自然なことではないだろうか。


作家の有島武郎は「愛は惜しみなく奪うものだ」と言った。愛は惜しみなく与うものだ、というトルストイの論に対する逆説的な意見だが、冒頭のシーンを読み返すたび、この至言を想起せずにはいられない。

緑の発言は、相手の時間やお金、あるいは体力までをも奪い、自分の要求を達成させるという点で愛に満ち溢れている。相手のことを大切に思えば思うほど、奪うことは増えてゆく。

親しい友人に送るLINEだって、相手の時間(あるいは通信料)を奪っている。その相手が返信することで、自分も同様に奪われてゆく。小さな積み重ねではあるが、私たちもまた、この価値観の中で生きているのだ。


あなたが誰かから連絡をもらったとしたら、それは奪われるという愛のかたちにほかならない。ちょっと飲もうよ、だなんて誘われたら、それはもう愛のかたまりだ。すこしくらい気乗りがしなくても、奪われに行ってみてはどうだろうか。

奪われたそのぶん、きちんと与えてくれるはずだから。

私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。「わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?」
私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?