自己責任っていう言葉が嫌いという酒の話(二律背反する父性と自己について)

緑が綺麗な季節だなぁと思いつつ,最近は日曜日だけtwitterに現れる落合陽一です.月一くらいは普通のノートを書こうと思ってるんだけど,今回は自己責任が嫌いって話と死ぬ気でっていうのが嫌いって話を書こうと思います.僕はややこしいやつだなぁと自分で自分を思うことも多いんだけど,自然で正直なやつだなぁと思うことも多く,その辺の考え方が最後まで読むとよくわかるようにしたいと思って書き始めています(補足は随時更新される予定).(書いてる途中で思ったのは,理解しにくいのも主語が省略されやすい言語で話すからな気もする.僕のいう「我々」は人類史的我々やコンピュータサイエンス的我々や社会の中での我々を行き来するし,「僕」は教員としての僕や起業家としての僕やアーティストとしての僕を行き来するから)※落合陽一がわからんという人はググってもわからんから下記リンクあたりを参考にググると

さて前提はおいておいて,まず自己責任の話.自己責任の話に関してはここ5年くらい考え方は変わってなくて,さて昔のログとしてtwitterを拾ってみると

これは3年前のツイートですね.多分ジレンマの番組の中で言ってたことだと思うんだよな.自己責任の話してた誰だったっけか,もう忘れた.

まず最初の段落の前半は「魔法の世紀」か「デジタルネイチャー」によく書いてある「人とインターネットはカップリングされた知性になっている」,みたいな話でインターネットの周囲にいる生き物で,その集合的知性に恩恵を得ながら暮らしている.ってことです.その後半は,この前の宮台さんとの対談でも話したけど,宮台さん風に言えば「言葉の自動機械」として生きるのも自由だし,人間的偶発性の中で生命を輝かせながら非合理的に生きるのも自由ってことです.そういう考え方に生きている.

↑botと言葉の自動機械は同じようなものだと思う.

ちなみに無駄と効率化,僕はどっちも好き.よく合理的な時間の無駄を廃したいんですよねといわれるとそうでもないし,無駄を愛しているんですねといわれるとそれはそれでまるでそんなことはない.ここはそもそもアーティスト・起業家・研究者・教育者の自分が相反する中,なかなか一貫のしようがない.僕は基本的に喋りながら常にいくつかの自分が喧嘩している.要は喧嘩するいくつかの自分が喧嘩できてる状態が健全という考え方を持っている.

後半は前半の選択が自由だとしても同じ巣(技術的インフラ・社会的インフラ)に帰属する以上はその相互扶助が大切で社会保障やデジタルデバイドについて維持する意思が必要ってことです.ここは僕がよく多様性というところと合致していて人はコンピュータを用いて身体的な差異や社会的な差異を乗り越えるように環境を整備する(=巣を整備する)ということが必要と思って書いてます.こういう考え方はクロスダイバーシティの取り組みやポリテックのためのさまざまな取り組みや大学や企業体の産学連携整備などの中に生きていて,僕の具体的なアクションに移りつつある.

それでこの前話に出た父性の話,

「自己責任とかいうやつは父性がない」というやつですが,ここで出てくる父性というキーワードはよくtweetでも出てくる.

ここでは男性とか女性という男女の性別の問題を扱ってるわけでなく,父性を持った女性がいてもいいし,母性をもった男性がいてもいい.ここでいう父性は,「一歩引いた目線で我が子のように他人を見守って共同体を維持しようとする社会接続意識を持った親心みたいなもの」「自己責任」といって「自分が考え続ける責任を放棄するな」っていうことだと思っている.

だから自分と父性が背反してもそれが常に喧嘩し続けたりする葛藤を捨てるなってことでもあるんだと思う.ただ,葛藤がなくなるとそれも思考停止につながるので,父性持ってるので自分はどうでもいいよっていうスタンスを常時続けるのはナシだなぁと思う立場であったりする.

ぼくはこんな感じにアーカイブとしてtwitterつかっているので,そのとき考えたことを特に立場関係なくメモっておく使い方をして早何年か経ちました.SNSのアーカイブとしての使い方は便利だなぁと年を経るごとに思う.揚げ足取られたりもするけど,それはそれ考え方が変わることもあるし,変わらないこともある.自分にとっては役に立つし,揚げ足とるやつは対話意識が少ないやつがほとんどだからどうでもいいと思っていたりする.

それでなんで久々にnoteを書こうかと思ったかというと,自分の中に8個(おそらく9個)の異なる自分がいることに気がついたからである.今まで4つだと思ってたんだけど,だいたい8個の考え方が常にある.それが常に戦いながら生きている.

青いゾーンは2×4の8個の考え方が常にあって,そこに生へのスタンスで+1という考え方で生きている.もしくは死んでいく.人によってこのマスがどんだけあるかはわからないけど,僕は少なくとも落合陽一という存在の中にこの9つがあって常に喧嘩する状態で生きている.他の人は16個あったり20個あったりするかもしれないけど,僕は少なくとも9つある.

だからSNSとかではなかなか喋りにくいなぁと実感することも増えた.それぞれにアカウントを分けるみたいなことができればいいけれど,それはそれで間違った解決策な気もするのだ.

心象として喋ってるときは,希死的でいることも多いし,トップカンファ!って言っているときは子ども的であることもあれば,ラボを見ているときは父性的であることも多い.このバランスをうまく保って他人に共感すること,もしくはしないことを行き来しながらさまようことが多様性なのではないかと感じることがある.逆に意見やパブリックコメントの場合は立ち位置が明確なことも多いし,純粋なひらめきはそのどこにも属さない瞬間も多くはある.日常は偶発性に満ちているからだ.

例えば酒に関するメッセージもいろいろだ.

最近,大好きだった酒をやめたのは時間がないからだけど,父性としては他人にその選択を選ばせるつもりは全くないし,勝手にしててくれていいと思ってるというときに,心象のメモとしては酒飲むのは暇だと思ってるってことになる.実質,暇だと思ってるんだけど,暇がないと文化は醸成されないし,なかなかに厳しい.つまり,暇を殺そうとする俺は,9個の自分の中は希死念慮の多い自分になる.なるほど確かに,

このモードの自分ならこういうだろう.ここで出てくるSNRIは薬の名前.初めて心療内科に行ったのは高校生くらいのときだからよくまぁ今まで生きてこれたものだと思いながら家族や学生や社員や仲間の環境に感謝しつつ生きている.いや生かされている.

そういう流れで落合陽一としては,自分に厳しく他人に甘くいたいし,他人に甘くなるような社会である世界になるようにしたいというのがインターネット蟻と巣を保全する父性的な考え方を持っていて,常に異なる正義の相反の中で多様性を噛み締めながら生きている.ぼくの古参のtwitterフォロワーはそういう感覚を持っているんじゃないかなぁと思ったりもする.そこでだ.

希死念慮する僕はつい予定を詰めまくってしまう.入院すると心地よくなってしまう,徹夜で作業をして健康を害した数値がでると気持ちがいいし気分が楽になって嬉しい.これは干支一回り付き合ってきた多分病なのである.人生をトータルで考えると長いほうがなんてことは何十年も考えてきているが,それよりも熱い瞬間のために生きる性質が長い時間の社会への専有に抗って希死をもたらす.

↑予定がこうなってないと落ち着かない.

そんな中、SNS上のさまざまな有名人が言説する,頑張ってるけど,死ぬ気でやってるし自己責任だし,お前も頑張れば? みたいな風潮が嫌いである.酒飲んで楽しかったといいながら命がけで忙しいとか言ってるのも嫌いである.これは好き嫌いの問題で別にだから悪いといっているわけじゃない.ただ嫌いだ.(別に↓家入さんや箕輪さんのことが嫌いなわけじゃないけどね.)

オンオフのリズムとその運要素を持っているのに,死ぬ気で努力すれば突破できるというのも変な話で,文化的アウトプットにはオンオフで出てくる運の要素がないと突破できないこともしばしばある.それを命がけで突破できるというのも変な話だと思うんだ.運要素でうまくいかない人もたくさんいるし,そこは自己責任じゃ片付けられないし,父性的には環境をなるべくガチャや運ゲーでないように変換したいと思うのもその1つ.努力したらうまくいくなんてことはないし,自己責任というのは父性が足りないし,構造の問題を個別の事象の努力でなんとかできるとも思っていない.

そこまで説明すると,8つの自分(4つの属性+プレーヤーか父性か)+1(希死念慮する自分)の自分を持つ意味がわかりやすくなる.つまり,お金が欲しいとか有名になりたいとか思ってるのではなくて,ただ燃え尽きたい自分を生かし続けるために,欲なくやり続けるエンジンが常についているのである.そういう風に突発的に死なないように生きてきながら,自分に仕事の中で前のめりで倒れる終わりを迎えろと念じて生きてきた.ゲームがあればプレイして殉じる自分が8通りあれば,時間は有限なので使い切れる.そういう求道の中にいるし,他人に強制する気はないし,周囲には迷惑かけながら生きてるなぁと思いながら自分のできることの中に身をおきつつ常にやり続けている.その辺は下の連載にも書いた.

まとめると,しばらくまだ走り続ける予定なので共感性のレベルを上下させながらやっていきます,ということと,いくつかの自分をまとめて喋るSNSはなかなか立場を明確にするのが文字数的に難しいということもあるなという話だった.

しかし多様な立場の理解と思考のプロセスを止めないという観点ではそういった複数の自分を戦わせながら思考していく考え方も重要だと思っている.最大公約数を出していくことも飛び地の意見を出していくことも必要だと思う.そうすれば安易な自己責任にも落ちていかないのかなぁと思っている.常に思考がポジショントークにならないように気をつけていかないといけない.

よく「落合陽一ならこう言いそう」といわれることがあるが,だいたい当たらない.そりゃ常に9つの自分が喧嘩してるんだから,そう簡単には進まない.しかし,単純に割り切るゲームで人をラベル化しようとする社会には,そういう抗い方がいいと思っている.

自体は複雑で,単純で,絶望的で,楽観的な,テクノロジーで,人的解決で,無駄を排除しながら,属人的で,行動不能ではなく行動で,生ではなく死なんだと思う.

ここでのキーワードはおそらく自然で,自然感の獲得は最大公約数的で,突破は飛び地の自分の意見の参照がポイントで,その振れ幅をどんだけ論理と倫理の壁を突破して考えて,どんだけ最大公約数に近づけるかのような感覚が必要だと思う.そのためにいくつもの現場があるし,日々の修行がある.

2025年には暇を充填する生活に移行したいなぁと思って予定を詰め込むぼくがいる.自分でやらなくていいことは他人に任せながら,時間の中の何かを最大化してとにかく自分を焼き尽くしたいと思う焦燥感が今日も何かの糧になっていると思う.今日も環境に生かされ,感謝しながら.

Twitterをbot移行してから長文のボヤキがなくなったので代わりにnoteで.月に一回くらいはまとめたくなるのがいい感じなのかもしれない.

↑そんな落合陽一はこんな人




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落合陽一

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コメント9件

自分を深く覗きこむ好奇心や、自分に正直なところに針を合わせる感度、そしてなによりも、自分という自然をのびやかに豊かにしておかないと胸苦しくなるような性分に、魅力を感じています。複雑な自分を厳しくちゃんと見ているから、他人には甘く、決して自分、自分にはならない。
素直な文章
自分は精神がダメになることが、8ヶ月間とかそういうスパンでたまにあります。
自己肯定感とか尊厳というのが底に着きます。そしてしんどい重力が、自分をベットに押し付けて、なかなか再起できません。そんな時に思うのは死にたいというよりか、何も考えたくない(考えるといつも絶望に終着するからです)とか、消えていなくなりたい。とかいう気持ちです。死ぬのは親が悲しむ顔が浮かぶのでできないし、痛いのもいやだ。神経伝達速度より早く死ねるならいいですけどね、人間ってスイッチを切るみたく瞬間的に死ねないじゃないですか多分。溶岩に飛び込んでも、粉砕機に投身しても。
今は再起してそんなネガティブな感情は皆無なんですが、次から次にやりたいことが頭をよぎります。これ全部やるのは無理やろ〜と思いながら。最近励まされる言葉はニーチェが言っていた「どんな苦しい人生だとしても、一度でも心から楽しい、幸せという心身が高揚することがあれば、それは生きるに値する人生なのだ」というようなことです。
自分も勉強会を開いて、父性的に?みんなに知ってもらいたいことも沢山あるし、無条件に楽しいことに子供みたく無我夢中になることもあります。
この記事読めてとてもよかったです。
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