見出し画像

何時間も家に立て籠もっている間、62歳の父は、テロリストと戦った

最初は警告のサイレンだけだった。朝の6時過ぎ、妻のミリは聞き慣れた音(ミサイルが飛んでくる音)で目を覚ました。警報は鳴らなかったが、キブツ・ナハル・オズの我が家では、娘たちの寝室でもあるシェルターに駆け込んだ。ガリア(3歳)とカルメル(1歳)は、この美しい地域を散策した素晴らしい一日を終えた後でまだぐっすりと眠っていた。子供たちを起こしたくはなかったが、荷物をまとめ始めた。これもまたいつもの日常になると思っていた。ロケット弾が飛んできて、シェルターに避難して、それから娘たちを連れてイスラエル中部までドライブするといった一日に。

7時近くになると、サイレンと爆発音が絶え間なく鳴り響く中、私たちは初めて血も凍るような音を聞いた。自動小銃だ。銃声。最初は遠くの方から、そして畑の方から。次第に、近くの道から。そして近所、ついに隣の家から。同時にアラビア語の叫び声が聞こえた。すぐに何が起きたのか分かった。最悪の悪夢が現実になったのだ。武装したハマスのテロリストがキブツ内に侵入し、我々は、子どもたちと一緒に家の中に閉じこもっている、そのハマスが我が家の戸口に立っているのだ。

私たちは9年前の2014年『Tzuk Eitan(境界防衛)』作戦の直後にナハル・オズに引っ越してきた。キブツ特性の、冒険的な生活とシオニズムが混合した共同生活に惹かれたのだ。テルアビブ出身の若い夫婦が、ガザ国境のキブツに生活を移すというのは異例の決断だった。

2022年には、ナハールオズのコミュニティとキブツ生活の多大な恩恵が、レッドアラートのサイレンへの恐怖を消し去っていた。

私たち家族は引っ越して来た決断を誇りに思い、ナハール・オズは私たちの家となった。そして2016年、国境フェンスからわずか数百メートルのその場所で結婚した。その後アメリカのワシントンで3年間『Haaretz』(イスラエルのメディアの1つ)の特派員として生活し、2020年にキブツに戻った。その時の決断は、最初に移住を決めた決断以上に重要だった。キブツの美しい小道や芝生に囲まれたコミュニティを私たちの終の家にするという確信たる決断だった。

キブツに住んでいた数年間、数え切れないほどの『レッドアラート』のサイレンを経験していた。また、風船爆弾の脅威や、野原が焼かれた後の匂いにも慣れていた。しかし、このような脅威は、キブツでの生活、特に2人の小さな娘たちが毎日歩いて幼稚園に通い、ミニマーケットでアイスキャンディーを買いに走ることができるような暮らしの恩恵にはかなわなかった。私たちにとっては、どんな困難があっても、また困難があったからこそ、夢のような生活を送ることができたのだ。しかし今、これまでに経験したことのない脅威に直面している。この様な脅威は未然に防げると確信していたのに。

私たちがキブツに移り住んだとき、最も恐れた言葉は 『トンネル 』だった。しかし政府は、この地下にあるものの脅威を無効にするために、何十億シェケルも費やして、私たちが夜安心して眠れるようにしてくれていた。その日の朝、この地下にあるものが、私たちの世代の「バーレブ・ライン(1960年代末にスエズ運河沿いに構築されたイスラエルの対エジプト拠点群・およびその周辺施設の総称)」にあたるものとなり、ヨム・キプールで起こった災難の真っ只中にあることに気づいた。あの時、イスラエルは地底にセメントを流し込み、ハマスはトラクターやバンでフェンスを乗り越えて逃げたのだ。

まず最初に、停電になった。真っ暗になった。携帯電話で灯りを照らし、同時にWhatsAppグループで近所の人たちのメッセージを読んだ。テロリストたちは家々の間を自由に歩き回り、いくつかの家に侵入し、私たちの家に何発も銃弾を撃ち込んできた。娘たちはその音で目を覚ました。彼女たちには、今はベッドに横になって静かにしなくてはならないことを説明した。驚いたことに、彼女たちは完全に理解した様子で、年の割に信じられない程物分かりが良いと思った。シェルターには食料も懐中電灯もなかった。今、この記事を読んでいる北部の住民の皆さん、どんなシナリオにも対応できるよう、あらかじめ万全の準備をしておいて下さい。私たちのような窮地に陥ってほしくありません。

携帯電話の電波も途絶え始めた。通信可能なわずかな時間に、両親と『Haaretz』で軍事分野を担当している同僚のアモスとヴィニブに状況を報告した。ナハール・オズで起きている現状を陸軍の主要将校に報告するため、朝から尽力してくれた2人には感謝している。逆に、彼らからの最新情報により、我々の状況がいかに悲惨なものであるかが明らかになった。ここで起こっていることと同じことが、多くの都市やキブツ、軍の基地でも起こっていることを知った。よって、誰かが救助に来てくれるまで長い時間がかかることを理解した。一方、鍵のかかった窓の外では、銃声が続いていた。

困難で神経をすり減らすような不安な時間が過ぎた。キブツ内で何が起こっているのかわからなかったし、暗闇の中にいる自分たちの姿さえも見えなかった。娘たちは英雄だった。食事も取っていないのに、完全なる沈黙を守り横たわってじっとしていた。時折、シェルターのドアを開けてリビングルームで遊ぼうと言われたが、その度に、今外に出るのは危険だから無理だと落ち着いて説明した。テロリストが家に侵入できたかどうかはわからなかった。突然、頭上でドローンの音と大きな爆発音が聞こえた。近所に駐留している部隊の空軍が攻撃をしているのだと思いたかったが、知る由もなかった。

ふと携帯に届いたメッセージが、私たちに希望の光を与えてくれた。父、予備役少佐のノアム(62歳)が、助けに来るとメッセージをくれたのだ。どうやってここまで来るのか、想像も出来ない。しかし、こうして娘たちが私たちを完全に信じてくれたように、私たちも両親を信じることにした。夕方になって初めて、その日父たちに何が起こったのかを聞いた。彼らがどれだけの人々を救い、私たちのところに来るまでにどんなに勇敢であったかを。

最初、父たちは近くのキブツ・メファルシムに到着し、路上にたくさんの死体と焼けた車を見たそうだ。突然、ベエリ地区であったNOVA音楽祭でのテロリストたちの襲撃から奇跡的に逃れた人たちが目の前に現れ、父たちは彼らを北部に送り届け、再びナハル・オズに戻って来た。そこで父は、道路にただ立って指示を待っているイスラエル軍の一団に会ったらしい。父によると、上級指揮官とのコミュニケーション不足の結果、完全なる混乱と混沌を目の当たりにしたという。兵士の一人が、父と一緒にナハール・オズへ向かうことに同意し、母はメファルシムに残り、二人はそこで別れた。

キブツの入り口付近で、ナハル・オズに救助に向かっていたマグランの部隊が大規模な火災に巻き込まれていたそうだ。父と、父に同行していた兵士のアヴィは車から降りて戦闘員に加わり、テロリストを撃退するのを手伝った。そして、負傷者2人を車に乗せ、メファルシムにまた戻った。その後、両親は再び二手に分かれ、母は負傷者をアシュケロンに避難させ、父は再度ナハル・オズを目指した。この時、父はイスラエル・ジブ少将と合流し、彼は父やヤイル・ゴラン元参謀副長と同じように完全装備で、人々の救助のために兵士たちに加わった。

ナハル・オズの入口で、父たちはマグランの部隊と、テロリストたちを探し撃退するためにキブツ地域を分断してパトロールしていた空挺部隊と合流した。父はマグラン兵の一団に加わり、家々を回り始め、少なくとも6人のテロリストを殺し、あの早朝からほぼ10時間後にたくさんの人々をシェルターから救助した。キブツの隣人や友人たちは、救助に来てくれたのが、兵士たちとともに”アミールの父親”であったことを知って驚いた。彼らは携帯にメッセージを送ってくれたが、私たちの携帯はすでに電源が切れていた。イスラエル軍が近くに来てくれていると思ったのは、聞き覚えのある銃声で、兵士がハマスに遭遇するたびに鳴り響いていた。

シェルターでの最後の1時間が一番辛かった。更に部屋は暗くなり、空気も薄く、娘たちは外に出たいと頻繁に言い始めた。彼女たちを静かにさせておけたのは、おじいちゃんがもうすぐ来るという約束だけだった。午後4時頃、窓がノックされ、聞き覚えのある声がした。ガリアはすぐに「おじいちゃんが来た」と言った。私たちはこの時初めて泣き崩れた。

それからの数時間、我が家は『戦争の部屋』と化した。兵士たちが出入りし、負傷した隣人、テロリストにドアを壊された家族、一人ではいたくない年老いた友人たちが連れて来られた。父が来てくれた喜びは束の間で、新しい家族が我が家に連れてこられる度に、さらなる痛み、恐怖、不安を感じた。死者、行方不明者、負傷者。近隣コミュニティ、そしてイスラエル国家に襲った悲劇の大きさが、次第に明らかになっていったからだ。

家の外を見ると、地面にテロリスト5人の死体が転がっていて、そのうちの1人がRPGランチャーを持っていた。最も困難な状況であった時でさえ、死は私たちが思っている以上に身近にあったのだ。それでも、夕方、近所の子どもと合わせて12人の子どもたちの夕食を準備していた時、私たちはまだすべてを受け入れることが出来ていなかった。ようやく理解できたのは、キブツの住民を国境から遠く離れた場所へ避難させるバスに乗っていた時で、真夜中になってからだった。

ナハル・オズというキブツは、1956年にロイ・ロトベルグが亡くなり、その墓前でモシェ・ダヤンが行った有名なスピーチの後、シンボルとなった。決断力、回復力、また目標を固く守ることの象徴である。私たちにとって、ここは、単に、保護され、愛され、大切な場所であり、世界で最も愛する人々と共存できる場所だった。悲劇2日前の木曜日、私たちはグーシュ・ダンから来た友人をもてなし、彼らも緑豊かなこの場所に惚れ込んだ。しかし、この戦争で、何かが崩れ落ちた。私たちとイスラエル国家との間の契約は明確だった。「私たちが国境を守り、国家が私たちを守る。」私たちは勇敢に自分たちの役割を果たしたが、10月7日の暗い土曜日、多くの愛する隣人や友人たちに対し、イスラエル国家はその役割を果たさなかった。

アミール .T


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?