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自分以外はすべてサードパーティ

サードパーティという言葉を覚えたのは、某大手通信会社でスマートフォンの操作案内をしてたころ。
ITで使われることが多い、第三者団体的な意味の言葉です。(とてもざっくり)
純正じゃないみたいな方が分かりやすいのかもしれない。

結構前になんかのどっかで、「最近の優秀な人は、英語は勉強しない」みたいな話を聞いた。
その話自体が眉唾だけども、翻訳アプリとかデバイスがあるから勉強せずに、他のことに時間を使うらしい。
なんかその時に違和感を感じたのが最初でした。

その使ってるサービスが終わったり、はたまたネットが使えないとこに行ったり、その機械が壊れたらどうすんだろなっておもったんです。

実際問題、サービスが終われば類似した別のものを見つけるんだろうし(市場が飽和してるしね)、ネットはどこでも繋がるし、キャストアウェイやオイアウエ漂流記のような事態に巻き込まれることは早々ないんだろうけども。

でもわたしにはすごく違和感があって、なんでかなーと考えたときに、
常にわたしのなかには「最後は自分しか頼りにならない。」「何かに依存した幸せを持ちたくない。」、そんな考えがあることに気づきました。

いつからかは分からない。

誰かがいたら幸せ、とか誰かと共に過ごす時間が愛おしい、それだけあればいい、とか
それってとても尊くて美しいけど、それだけになってしまったら、その人が居なくなってしまったらどうにもならなくなるじゃないですか。
恋人なら他に好きな人ができるかもしれない、親なら恐らく先立ってしまう。
もうちょい軽めで言うと、この人の下で働きたいからその会社にいる。とか。
その人が会社やめたら終わるやつ。

たぶん私自身、気を付けないとそうゆうものに依存してしまうタイプで、ここ数年で別れが多すぎたことと元からの性分でそうゆう考え方になったのかもしれないと思う。

人に依存したり頼ることを、羨ましいとも人間ならではの美しいそれであると思うと同時に、
わたしは、私以外のすべてサードパーティだと思っている。

いつか、わたしの意志なんて何も関係なく終わる日が来るかもしれない。とても一方的な幕引きをされるかもしれない。
わたしのコントロールできる範囲ではない、欠かせない何か。
それに心が依るのが恐い。耐えれないから。

特に人に関して言えば、そうなれる人が正直本当に羨ましいとおもう部分もある。

ただそうなれないので、わたしはわたしができることを増やして、自分だけで楽しめて幸せで心が満たされることを探していく。
ひとりでも生きれる理由を探しておきたい。
誰が消えても何がなくなっても、生きる理由がほしい。

そして、技量とか知識に関してだけは、自分以外はサードパーティだと思った方がいいと思っている。
効率とかそんなこと関係なく、自分ができるようになりたいこととか、何かが誰かに頼りきってるな~って思うことは自分でできるようになった方がいいと思う。
別に一生誰かに甘えて生きていったっていいけどさ、自分だけが持ってる知識とか技量とかは、生きてきた証で何があっても消えないし奪われない宝物だと思うんですよね。

いまあるものは当たり前じゃなくてどこぞの誰かが作ってるもので、その人はそれをやり続ける義務はないんだってことを、なんか全員戒めたほうがいいんじゃないかなと思うのです。
誰もコロナでこんな世界になるなんて想像しなかったように、明日どうなってるかは誰もわからんくて。

最後に頼れるのは本当に自分だけだと思う。
寂しいことばかもしれないけど、自分の人生のケツもってくれるのは自分だけ。

世の中すべてサードパーティ。


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