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「手段が目的化していませんか?」という指摘が嫌い

タイトルで言いたいことを言いきっているが、掘り下げる。

指摘してやった感が出せてしまう

気に食わない気持ちが湧くのは、その指摘がそれなりの効力を発揮することの裏返しにある。

意味のない指摘であれば無視しておけばよいところ、着手しようとした手を止めて弁解しないといけない程度には、聞き手にもっともらしい印象を与える。

この「もっともらしさ」が出せるのは、それが本当に有効な指摘になるケースもあるから(後述)である。

しかし、そうでないケースも多い。とりあえず指摘してやった感を出すために発言しているとしたら、私は批難し返す。

それなりに多くのケースに当てはまる

ありがちなRPGの筋書きでも、魔王を討伐するために勇者の剣が必要となり、勇者の剣を手に入れるためにダンジョンを攻略しなければならないことがある。

この例で、勇者の剣の入手は魔王討伐の手段であると同時に、ダンジョン攻略の目的となっている。 RPGに限らず、物事は目的と手段が鎖のように繋がってゆくのが常である。

目的と手段の連鎖が長すぎる場合

連鎖が長くなることに耐えられず「目的が手段化してませんか?」と言うケースに対しては、「当たり前やん!」「だから何?」と思う。

マシュマロ・テストに耐えられない子どもと同じく、目先の利益をグッと我慢して未来の報酬を目指せない人に幼稚さを感じるのかもしれない。 

もちろん、手に入れるために使えるリソースは有限なので、最初の見積もりよりもコストが高くて報酬に見合わないことはある。

ただ、その場合にすべきは「手段が目的化している」という指摘ではなく、「見積もりが甘くてこんなに大変なのは想定外だったので諦めよう」という話し方をするべきだろう。

「手段が目的化していてる」という指摘が適切な場合

では、どんな場合であれば「手段が目的化している」という指摘が有効であるのか。

他にもっと良い手段があるにも関わらず、それを選ばず暫定の手段に固執している場合に、指摘は適切なものとなる。私はそう考えている。

ここで「良い手段」の評価もまた難しい。人や組織は、正義感や美意識を持っていて、明文化できていないことも多い。

時代遅れのこだわりかもしれないけれど、実は鍵を握っている大切なことかもしれない。少なくとも私は、事情も知らずに全否定することはできない。

ゼロベースであれば優れた手段でも、既に着手してコストを投じた手段を、損切りしてまで乗り換えるのかの判断も難しい。

道中を楽しんで

「コスパ」や「タイパ」という言葉が普及していることからも、お金や時間を無駄にしないのが良い手段というのは、多くの人が納得するだろう。

この意味で、「効率が悪い手段に固執すべきでない」という指摘はもっともらしい。だけど、私は好きでない。

人はいずれ死ぬ。無駄を取り除いて効率よく生きても、まっすぐ死に向かうだけ。それよりは、ネテロ会長の遺志を継いで「道中を楽しむ」方が健全に思える。

実は「道中を楽しむ」という言葉そのものが、「手段の目的化」の言い換えである。サイクリングの目的地よりも、みんなで走る手段を大事にするような話。

それって個人だから言えること?

個人レベルだから「道中を楽しむ」ために手段に固執しても許される。企業や組織には成り立たないだろうか。

ドラッカー先生によると、企業の目的は利益追求らしい。その目的のためなら不正に手を染めるのか?それは極論だけど、やはり美意識や正義感が手段に影響を及ぼすように思えてならない。

もしくは「〇〇を成し遂げるために利益を追求する」みたく、上流の目的を据えているべきじゃないのかと考えている。

少なくとも、効率なんかを最上段の目的に据えるのは虚しい。

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