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メートル法と伊能忠敬、近代国家への道3

暦や地図は政治力が必要

いろいろ調べていくと、徳川吉宗が日本の江戸期科学技術のキーパーソンであることが、さらにわかってきた。
フランスだと、絶対王政を倒して第一共和制で権力を掌握したあとに、国民会議で、メートル法提案したタレイランなどなのだろうが、質量保存の法則で有名な化学者ラボアジェなど科学者そのものが政治家だったりするのがフランスと日本との違いなのかもしれない。

江戸初期に暦の大改革があった

江戸初期まで平安時代から823年使用されてきた、宣明暦(せんみょうれき)が日本で使用されていた暦だった。もともとは唐の国から輸入したもので、長年の使用で日食の予報が2日もずれるなど、現実とのズレが問題になっていた。犬公方で有名な徳川綱吉治世の1684年12月5日に貞享暦(じょうきょうれき)を渋川春海が土御門泰福を通じて上表し改暦される。

渋川春海の政治力

渋川春海は、幕府お抱えの碁方の安井家・一世安井算哲の長男としてうまれた。21歳で御城碁という将軍の御前で対局に出仕した。碁を通じて、将軍はじめ幕閣や、朝廷にもさまざまな人脈が形成されていた人物なのだ。
また、江戸と京都を往復して、数学・暦学・神道などを学ぶ過程で当時使われていた、宣明暦の誤差を修正する方法を検討していた。
しかし、実際に改暦となると朝廷と幕府両方の政治的な権力を動かす必要があり、その両方に通じていて、さらに天文学や暦学に通じていたというバランスがことをなしたのだとかんじる。
この政治力+科学力はこのあとの改暦の明暗を決めていく要素になる。

江戸中期には徳川吉宗が改暦を指示した

徳川吉宗は、文武両道のすごい人でした。
私は津本陽さんのこの小説がおすすめです。

徳川吉宗在位1716年-1745年のころ、中国は清の時代だった。清が使用していた暦は天文学の知識を持ったドイツ人宣教師が作った授時暦だった。日本で使用されていたのは渋川春海の「貞享暦」だった。これを宗教色を排除した形で西洋の天文学を取り入れてレベルアップさせて改暦をしたかった。
徳川吉宗は、キリスト教の影響を受けていないが、最新の天文学を取り入れた暦をつくりたかった。西川正休・渋川則休らに指示し仕事をさせたのだが、1751年に亡くなってしまう。これで改暦作業が頓挫してしまい。
もともと朝廷のもと改暦を司っていた土御門家(安倍晴明の子孫)に仕切られてしまい。1755年に宝暦暦として発表されるも、出来が悪く。この精度が悪い暦に問題を感じるのが伊能忠敬であった。

松平定信や堀田正敦の改暦への情熱

江戸中期に寛政の改革を行った松平定信は、徳川吉宗の孫であった。このことから、御三家に準じる扱いを受けていたのが松平定信だ。
祖父である徳川吉宗の改暦を成し遂げるという意向をもっていた。在任中には果たせず、松平定信失脚後に意志を継いだのが若年寄だった堀田正敦だった。堀田正敦は、養子で仙台伊達藩より堀田家に入っている人だ。
当時大阪で医業のかたわら天文学の研究をしていた麻田剛立が日食予測を的中させるなどの実績があった。堀田は1795年に麻田の弟子である、間重富・高橋至時を江戸へ召し出し天文方へ採用、改暦事業に当たらせた。三年後の1798年に寛政暦として結実する。

まとめ

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