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見られていると背筋が伸びる -シセイをよくするには-

先日、ふと拝見したblogを一読し考えさせられることがありました。

書き手は、ジャーナリストや大学教授、政治家の記事を転載するBlogosというwebメディアで働いてきた方です。

仕事柄、彼らが記すいくつもの記事に目を通してきた経験として以下のような実感を得たそうです。

僕が、この7年間の業務を通じて痛感したことは、「政治家だろうが大学教授だろうが、ワイドショーで訳知り顔で事情を語るコメンテーターであろうが『立派な人』とは限らない」ということです。

というのは、さまざまな意見の裏にはどんな方も「感情」があり、

自身が心地のよい言説に流され、嫉妬や個人的な出世という思惑に縛られる。

その結果、

本来詳しくもない分野について実際には何も言ってないに等しい、知ったようなことを言ってしまう。それはサラリーマンだろうが、政治家であろうが、大学教授であろうがコメンテーターだろうが同じなのだと思います。そして、一般の社会と同じような割合で、政治家や大学教授の世界にもトンデモな人がいたりするのです。

だからこそ、できることとして、政治に興味を持ち続け、常に監視を続けていくこではないか、そう続けます。そして、

「この人なら安心して政治を任せられる」という人は多くないこと、そうした人ですら我々が関心を失うと、我々一般人と同じように様々な理由で、当初の志を失い、安き方に流れていってしまうということをお伝えできればと思います。

ながながと引用しましたが、ここに書いてあることは、うん、片腹が痛いなーと感じますね。

いや、誤解を招く前に申し添えれば、決して知り合いの議員が「トンデモ」であるということが言いたいのではなく、そうなる可能性が十分に自らにあるかもしれないと、自戒を込めてそう思ったわけです。

というのも、筆者が指摘しているとおり議員は「本来詳しくもない分野について」言及しなければならない、さらに言えば、決断をしなければならない立場です。

正直に言えばここがとても厄介なところで、決断をするには、当然ですがそれなりの理屈や理由が求められます。

そのために、職員の方の話しはもちろん、市民の声や有識者の方の意見に耳を傾け、それを元に、熟慮を重ね、議論を尽くし、決断をすることが求められているのですが、それでも、人は往往にして間違い、あらぬ方向に舵を切ることがあります。

それは、議員であろうと、大学教授であろうと同じでしょう。

そうならないためにも、理性を過度に信じるのではなく、共同体が伝えてきた叡智を敬い、尊重しつつも、他方で、現実は過去と同じように完璧ではないからこそ変化が必要であると思い定め、突き進むところは進むという姿勢が大切です。

ただ、このような緊張した状況に身を置き続けるのは難しい側面もあります。自らを律し続けるほど強い人間はごく僅かですし…

それを担保するためには、衆人の目が注がれていることがなにより効果的です。

もちろん、そのためにも議員は身を晒し情報発信に努めていくことが求められているのだと思います。

なんだか、結論めいたものを言いましたが、そう簡単ではないよなーと感じますが、出来る限りのことをしていきたいと思います。

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