習っていない漢字を書いてはいけない

人は、興味があることは、教わらなくても自ら学習しようとする。

「人間は考える葦」とは、哲学者パンセの言葉である。考えること、考えて自ら試行錯誤しながら、物事を進めようとすることが、人間の人間たる所以である。

しかし、表題の言葉に代表されているように、教師が教えたこと以外を良しとしない昭和的な傾向は未だ根強い。

教師の気持ちはこうだろう。

教わっていない漢字を独自に覚えてしまう事で、書き順やその漢字の成り立ち、または、止めや払いなどの書き方を覚えずに誤学習してしまうということだろう。

また、その誤学習が他の児童に連鎖してしまうことも懸念される。


気持ちはわからなくはない。

しかし、戦後から続く教師主導により一斉授業形態の名残であろう。
そこには、教師ー児童の強烈で強固な主従関係も見え隠れする。

教師が教える事が全てであり、それ以外は全て誤りである。


子どもに聞いてみるとよい。その答えの根拠を求めると返ってくるのは

「先生が言ってたから」

どうしようもない他力本願的な学力である。

違う。そうではない。自ら考え、自ら行動し、その結果どうなるのかを
身体的に学ぶことがこれから求められる学習である

主体、対話をいかに掲げようと、根本の教師一人ひとりの姿勢が変わるには時間がかかる。


およそ30年前の小学校4年生の時。当時は、リレーの選手という制度があり各学年から選抜で4~5名選出されていた。

明日は、その選考会という時に、急に思い立った僕は、家の周りをぐるぐると走り始めた。今でも覚えている。

親には、そんなことを急に始めても意味がないとか
やるならマラソンではなく、ダッシュの方がいいとか

言われたことを今でも覚えているのだ。

確かに、科学的にも、または、経験則に照らし合わせても、ゆっくり何度も走る事、しかも前日にやっても、大した変化は期待できない。さらには、怪我をする危険性もある。

大人側からみると、少年のしていることは奇妙であり、無意味な行為だっただろう。


しかし、なぜ30年を経過してもそのことを覚えているか。

それは、当時の少年が自分なりに考え、自分なりに行動した、(たぶん)初めてのことだったからである。

もう一つ覚えているのは、走っていたら上級生に「頑張っているな」と声をかけられて嬉しかったこと

子どもは、主体的に自ら考え、自ら行動したことは鮮明に覚えているのである。

そして、子どもが教師や大人から求めているのは、論理的な正解ではなく、主体的に行動することを後押ししてほしいことなのである。

さすが、子ども同士はよく分かっている。

正しいとは、ある行為に複数の人間が関わり、合意が形成されることで成立することである、とは哲学者山口裕之氏の言葉である。

教師同士の合意形成のプロセスには、子どもは参加していない。

教師の「正しさ」は、子どもにとっての「正しさ」とイコールにはならないのである。



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