私にとっての8日6日

8月6日の午前8時15分。
どこにいても広島の方向に向かって黙祷していた。

私に出来るのはこんなことぐらいだった。

帰省している時は式典をのぞいてみたり
記念館を見学したり
平和公園を中心にあちこちに点在している慰霊碑を見て回ったりしたものだった。

出身高校の校庭にも慰霊祭はある。


私が小さかった頃、祖母はよくピカドンについて話してくれた。

6日の朝、空を見上げたら何かキラッと光った。爆弾だと思って地面に伏せた。口の周りを手で囲って目を瞑って。おもむろに目を開けると辺りは真っ暗。その空気を吸わないようにと口の周りを手で覆い続けた。

体は倒れた家屋に挟まれて動けなかった。「助けてつかーさい!助けてつかーさい」と大声で叫んでいたら知らない男の人に助け出された。家はまだ焼けてなかったから位牌だけ持ち出して避難した。

こんな話を何度も聞いた。


母親からは、幼い頃、ある銀行の前を通る度に、銀行の石段に丸いシミみたいな影があって、それは原爆が落ちた時に座っていた人の影だとよく聞かされたのを覚えている。当時、僕には理解不能な話だった。

大きくなってからは母親は1度だけ話してくれたことがある。8月6日の午前中、広島方向の空が真っ赤だった。不気味だった。8月8日か9日(聞いたけど忘れてしまった)看護助手として広島市に入った。

周辺の村から元気な女性がかき集められて看護助手として広島に入ったのだと。

母親からは日赤のどこかの部屋で原爆で傷つき、でも子どもを抱えた女性が横たわっていて、緑色のウンチをちょろっとしたまま息絶えた話を聞かされた。

他にも見ただろうに他の話はしてくれなかった。


祖母は長命(確か94歳で亡くなった)、母は短命(享年50歳)だった。原爆投下後に爆心地近くで過ごしたか離れて過ごしたかが原因の一つだったかもしれないと思うことがある。どれだけの放射性物質のチリを吸い込んだかがその後の命運を変えたかも?(最近読んだ記事で被爆時20歳未満だった人のガン発生確率は75%だと。まだ15、6歳だったからガンになったんだと、改めて被曝の恐ろしさを実感した)

これが私と原爆との関わりだ(当時母は結婚してなかったから私も存在しない。ただ、被爆者認定されていたから、それから生まれてくる者は被爆2世としてこの世に存在することになる。そういう意味での関わりだ)。

もうすぐ8時15分。黙祷の時間だ。(続く)

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