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北上。(2024/02/28)

いつもどおり起きて、コーヒーをいれて、パソコンを開く。
そこまでやって、そういえば照明つけてない、と気づく。
窓から入ってくる朝日の光だけで十分明るい。
春が近い、と思う。



先週、先生から明日参加する「対話の森」についての連絡が来た。ゼミ生の子が描いてくれたという黒板の絵の写真といっしょに、SNSでも宣伝しましたとの旨だった。その日は『あなたの根っこ』という題目で僕がお話することになっている。宣伝を見るとどうやら僕の肩書きは「農民芸術家」ということになっていた。ため息がでる。先生が「あつしの肩書きにもこだわりました」とメッセージを送ってくる。またため息がでる。せんせい、そういうふざけたところがね、もう、あれなんですよ、と思う。

すてき


先週、いろいろな農業関係のセミナーに参加した。

りんごの輸出についてのセミナーはたいそうおもしろくきいた。青森のりんごがほんとうにいろんなところに出回っていて、そのためにいろいろな人たちが苦労しているのだなぁと思った。輸出に取り組む体力は今のうちに会社にはないけど、徐々に力をつけてタイミングが来たら、輸出とはちがうかたちで世界にも目を向けて動き出したいという気持ち。

農薬や肥料についてのセミナーにも行った。そういう話が聞けるもんだと思って会場に行くと、某農業会社のセミナーが急に始まって、あれ、と思う。自分と同じくらいの年の男の社員が、2、3分くらいで終わればいいのに、自分のことをくどくど話し始めて、おや、と思う。途中で耐えられなくなって席を立ち、トイレに行く。でも、明日は我が身と思って、戻る。あとで社長がにやにやしながら「もう戻ってこないと思った」と言った。耳が痛くなることほど聞かねば、というのが最近のモットーなので。戻ったあとも彼は、自分たちがやっている、やろうとしていることがどんなにすばらしいことなのか、それは衰退のなかにあるりんご産業にとっての光なのだと、えんえんと語って、語り続けた。正直、余計なお世話だと思った。りんごに関わるようになってたかだか4、5年の僕がそう思うくらいだから、数十年以上もりんごと取り組みつづけてきた先輩方はどんな気持ちだったんだろうかと思った。いや僕が繊細なだけなのかもしれない。みなさんは上手に聞き流して、セミナー後の懇親会を楽しみにしているのかもしれない。僕だってきっと、余計なお世話なことを、いつだって考えているのだと思うし、それが余計なお世話だと思われることが、いつだって怖い。

よくわからん後味を残して某農業会社のセミナーが終わり、いつもお世話になっている農業資材屋さん主催のセミナーに移行する。開始1分前くらいにばたばたと小走りで戻ってきた僕たちに「そんなに走らなくても大丈夫ですよ」と笑って声をかけてくださった方がいて、古参の社員さんかしらと思っていたら、社長のご挨拶でその方がマイクの前に立ってお話を始めて、あぁ、社長さんだったのか、と思った。この一連の流れだけでもう、先ほどまでの胸のむかつきはどこかにいってしまう。ひよっこの僕がこんなことを言うのもあれだけど、とても謙虚な御仁で、会社の事業が農家の人たちがいないことには成り立たない、ということをきっと心の底でひしひし感じておられるのだろうなぁ、という短い挨拶だった。今思い出しても泣きそうになる。初めて参加したセミナーだったけど、農薬や肥料のことで知らなかったことをたくさん知ることができ、懇親会に参加しない僕たちのためにもお弁当を用意してくださっていて、とてもほくほくとした。真っ当にちゃんと稼いで、ちゃんとお金を払い続けていけるように、がんばろうと思った。

ねこのようにけんきょになりたい


先週、岩手県北上市の実家に行った。妻と友達二人の4人でちょっとしたプチ旅行という感じ。天気もよかった。

小学生の頃はよく家に友達を連れてきていたけど、この年になって友達を家に連れていくの初めてだった。どうなるかなぁとちょっと心配だったけど、時間が経つと和やかな雰囲気になって、父も母も楽しそうだったのでよかったなぁと思う。いろいろ話をして談笑した後、みんなで庭に出て、梅の木の剪定をする。もう六十年くらいになる梅の木らしい。亡くなった祖母が植えたんだそうだ。梅の木はりんごの木に比べて硬く、ノコの刃から手に伝わってくる振動も硬かった。病気になりかけていたところをばっさり切って、あとはあまり切り過ぎないように切った。蕾はもう咲きそうだった。今年はあんまり梅の実とれないかも、ごめん、と言うと「来年いい実がつくべ」と父と母は言った。そういう人たちだった、と思った。ほんとうのところどう感じていたかはわからないけど、その一言だけで、僕の罪悪感はずいぶん薄まった。ほんとうにありがとう、と思う。

梅の木

いろいろお土産をもらってしまい、実家をあとにし、せっかくなのでということで観光っぽいことをしてみる。

食べたかった太麺のパスタをテイクアウトして、近くの「さくらホール」という文化センターの休憩スペースでそれを食べる。高校生の時、よくここで勉強した。当時の彼女といっしょに来てたんですよと言うと、友達から「そういう話ばっか(笑)」「恋多きひとだったんですね(笑)」と言われ、妻はにやにやしている。いやなんか言ってよ、たのむから、ねぇ、と思う。

さくらホール内を散策し、満を辞して我らが「アメリカンワールド」へと向かう。カオスをカオスで上塗りしたような唯一無二の世界観…。北上の青少年少女の青春の聖地…。数多の青春がここで生まれ、そして儚く消えていった…。そういうわけで僕の中にはこのアメリカンワールドは謎の位置を占めており、よくよく通っていた当時のことが思い出されて郷愁が爆発する。

とてもたのしく満喫する。久しぶりにバット振ってからだばきばき。

観覧車もあるんですよ、北上のアメリカには

盛岡へ向かう道すがら、紫波町の「オガールプラザ」のマルシェによって爆買いする。野菜も安いし、飲んでみたかったシードルもあって、とてもよかった。初めてちゃんと行ったけどとてもいい施設だなぁと思った。その施設を取り巻くように、新しい住宅街が立ち並んでいて、紫波町は時代の先を行っているなぁと思う。

福田パンを求めて盛岡市内を彷徨うが軒並み売り切れで、福田パンの人気をナメていた。たいへん辛かった。次はもっと早い時間に来て盛岡を散策しよう、ということで皆と合意し、高速に乗って青森に向かう。あんなに晴れていたのに、雪がたくさん降り始め、レールを走るように路面に残る轍を走る。なかなか緊張感があるドライブ。でもこの時期しか味わえない時間でもある。音楽を流しながら、それぞれ余韻に浸りながら、走る。

家に着くとキャッツたちにお叱りをいただく。
充電したので明日からもよりいっそう彼らの下僕としてがんばろうと思う。


先週、WORKSHOP VOの『SUBURI STUDIO INSIDEOUT #2「森の時間、町の時間。」』に参加させていただく。合同会社新城キッコリーズの田實健一さんのお話をオンラインで拝聴した。田實さんが林業を通して思い考え感じるところのお話は、りんごの木やりんご畑のいろいろとリンクしていくようで、とてもおもしろく、ところどころ泣きそうになりながら聴いていた。終わりの時間が近づき、いい感じで場もしまりかけているような気がして、あぁよかったなぁ、と余韻にひたりかけ気を抜いていたところ、オヤマダさんに「タカハシサンドウデスカ?」と言われ、ヒョェ、となる。たぶん、すごいしゃべりたそうな顔してたのがバレていたのかもしれない。心の中で「あぁぁぁぁ!!!!」と絶叫しながらしどろもどろにお話する。時間もちょっと過ぎてしまい、申し訳ない気持ちになりながら、退出したあと妻に、おれが言ったことどうだった、と訊ねると、にやにやしながら「長い」と言われる。だよね、だよねぇぇぇぇぇ、となる。ひさしぶりに穴があったら入りたい気持ちになる。

でも、とてもたのしかった。あの場でお話させてもらえてよかった。ほんとうに楽しかったです。


先週、妻といっしょにスティールパンの演奏会に行く。泡がはじけるようなスティールパンにしか出せないあの音色を、久しぶりに生で聴いて、何度か泣きそうになる。演奏会が終わったあと、妻はスティールパンを叩かせてもらいに行って、たのしそうにスティールパンを叩いている姿を見て、とてもいいことだなぁと思う。相当たのしかったようで、家に帰ってからもスティールパンのいろいろな音源を、ご飯を食べながら聴く。寝る前にも、前に弾いたことのある「Danny Boy」の楽譜をもってきて、こうかな、あれ、こうか、などと言いながら、ぽろんぽろんスティールパンを叩いている。僕とキャッツは眠たくなりながら、そのぽろんぽろんを聴いていた。




北上の実家に行った時、農協で働いていた時にもらっていたお金でせっせと買い漁っていた本を漁っていた。今回持って帰るのはこんなもんかなぁと思って、ふと棚を見ると、備忘録、が目に入った。

手に取るとそれは、祖父が書いていたものだった。

祖父は、家では無口な人だった。子供ながらに、じいちゃんなに考えてるんだろう、と思いながら、いっしょの部屋でドラえもんやクレヨンしんちゃんとか見ていた。テレビ見てもいい?ときくと、なにも言わずにリモコンをくれて、じいちゃんもいっしょに見ていた。なに考えてるのかなぁと思いながら、ぼくは、ドラえもんとクレヨンしんちゃんをたのしんだ。

じいちゃんは学校の先生をしていた。お葬式の時にほんとうにたくさんの人がじいちゃんを悼みに来てくださっていて、すごい人だったんだなぁ、と子供心に思った。じいちゃんはそういうことはぜんぜん言わなかった。自分がしていることしてきたことを、ぜんぜん言い誇ったり言いふらしたりもしない人だった。そういうところもふくめて、えらいひとだった。先生として退職した後も、じいちゃんは出張授業という感じで小学生に理科を教えていた。小学生だったぼくもじいちゃんの授業を聞いた。内容はぜんぜん覚えてないけど、なんだかとても誇らしい気持ちだったことはよく覚えている。

そういえばこんなことがあった。

家に来るのが初めての友達がいた。彼が遊びに来た時、じいちゃんもいて、彼はじいちゃんにあいさつをしなかったので、じいちゃんにあいさつして、となんとなく彼に言ったのだけど、彼は「え、なんで?」と言った。なんであいさつしなきゃいけないの、というめんどくさそうな彼の表情や声音は、幼いぼくを赤面させた。はずかしい、と思った。なにも言い返せなかった。はずかしい、と同時に、腹が立っていた。なにも言い返せず、当たり前のように彼とテレビゲームをしていた自分に、腹が立って、泣きそうだった。

そういう祖父の備忘録、日記を、僕は見つけたのだった。父と母にも見せた。ふたりも知らなかった。ぱらぱらとめくってみた。

「給料25万円もらう。妻に24万円わたす」
「3万円の小筆を押し売りされる。大切に使っていくほかないか…」
「還暦を迎える。迎えたが、周囲から祝いの言葉なし…」

じいちゃん、と思う。あんなにきっちりしているように見えたのに、よく二日酔いで出勤していたのおもろいな、と思う。

働いていた時、僕はじいちゃんが使っていた部屋を使っていた。じいちゃんがひとりになれた部屋で、僕もひとりになっていろいろ考えたりしていた。じいちゃんが生きて、そこで臨終を迎えた部屋で、僕は、日銭を稼ぐために心身を休ませ養っていた。その時から、じいちゃんの日記は、よく見える棚の中にあったはずなのだ。でもその時の僕は、じいちゃんの日記を見つけることができなかった。今の僕が見つけた、見つけさせてもらった、ということにきっとたぶん、意味があるのだと思う。

じいちゃんのことを考えたとき、自分語り、ということを僕は考えてしまう。自分と同じ世代の人たち、それは僕も含めて、自分語りということに一生懸命になりすぎているような気がしている。でもそれはじいちゃんばあちゃん、とうさんかあさんの世代、時代、の反動的な面もあると思うし、一概にわるいこととは思わないけど、それでもやはり、自分語りの弊害というものが徐々にわかりやすいかたちで出てきているように思う。某農業会社の男性社員しかり、オンラインイベントでの僕、しかり。

もう明日に控えている対話の森でも『あなたの根っこ』という題目上、そして対話の森というイベントの性質上、自分語り、というところを避けることはできないと思うし、そこから絶対に逃げてはならないと今は思っている。

先日、一度原稿を書いてみて、妻に読んでもらって、平たく言うと「おもしろくない」と言われる。一生懸命に書いたからもちろん腹が立ったしなんで伝わらないんだと思ったけど、少しずつ冷静になってその原稿の文言を見直すと、丁寧に言葉をつなげていたつもりの自分に、自分の言葉に酔っている自分が、透けて見えた。あぁ、醜いなぁ、いやだなぁ、と思って、くやしくて、泣いた。

ヘッドホンで結束バンドの「フラッシュバッカー」を大音量で聴いた。

妻におもしろくないと言われた原稿で、僕が言いたかったことが、ぜんぶ詰まっていた。よく沁みてくる歌詞とサウンドとともに。

すごいなぁと思った。すごい。俺なんてまだまだ。

聴き終わって、パソコンを開いて、キーボードを叩いて、思いついたことを一気に、書いてみる。わるくなかった。書いて、このあとのことは、その場で思いついたことを、制限時間内いっぱい、話してみよう、と思う。

なんとか、僕の自分語りが、その後の対話の時間に、接続しますように。

明日をさっぱりした気持ちで迎えられるように、今日はこれから確定申告の合宿を妻と行う。

がんばります。


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