月を見ながら歩く

会社帰り、電車に乗り込むときに、ふと思いついた。途中の駅で降りて家まで歩いて帰ってみよう。

自宅の最寄り駅から勤め先近くの駅までは7駅。1日1駅ずつ順番に途中下車して、秘かな "冒険" をしてみようと思った。

1日目。いつも乗る駅の隣駅だ。ふだんの生活圏内だが、この駅を使うことはめったにない。子どもがまだ小さい頃のことだ。駅前にあるスーパーマーケットで買い物をした後に、子どもが「電車に乗りたい」と急に駄々をこね出した。いつもは聞き分けの良い子どもだが、この日は違った。結局、根負けしてこの駅まで1駅だけ電車に乗ることになった。帰りは子どもと二人、途中の小さな公園で遊んだり、自動販売機で買った飲み物を分け合ったりしながらゆっくり自宅まで帰った。小さな子どもにとってはかなりの長距離を歩くことになったが、子どもは終始上機嫌だった。そんな他愛もない日常の一場面を思い出しながら歩く。自宅前で振り返ると三日月が見えた。

2日目。この駅近くに大きな規模の大学がある。休みの日に、この学生街にある昔ながらの純喫茶に行き、コーヒーを飲んだことが何度かある。自分の出身校ではないものの、学生街の雰囲気が自分の学生時代の様々な記憶を喚起させてくれる。昔、「学生街の喫茶店」という歌があったことを思い出す。道すがら、新しい店がいくつかできているのに気づいた。ちらちらと店の中を覗きながらゆっくり歩く。まだ大した距離ではない。

3日目。この駅から歩いて数分のところに自分の住む市の役場がある。当市に引っ越してきたときは、様々な手続きのためにこの市役所に何度か通ったものだ。二人目の子どもが生まれた時に出生届を出す際には、子どもの名前の漢字を間違えないよう、記帳台で何度も下書きをした。そんなことを思い出しながら、市役所の建物を見通せる通りを歩く。夕暮れの中でもツツジの花の色はまだはっきりと分かる。

4日目。少し間が空いてしまった。仕事がかなり溜まっているのと、勤務後の飲み会への誘いが続いたためだ。自分が主賓とのことだ。断るわけにはいかない。このあたりから、自宅までの道のりがかなり長く感じられるようになってきた。やはり十分に時間の取れるときでなければ無理だろう。この駅近くには会社の元同僚が住んでいた。深夜にタクシーで帰るのに、方向が同じということでいつも同乗するのがこの同僚だった。年は離れていたが、なぜか気が合った。5年ほど前に転職して遠方に引っ越してしまった。元気にしているだろうか?年賀状のやり取りだけは続いているが、ずっと会えていない。落ち着いたら電話でもしてみよう。時々星空を見上げる。建物の合間から半月が見える。

5日目。事前に地図で自宅までの帰り道を調べておいた。かなりの距離だ。若干の近道もあるが、あえて線路沿いの道を通ることにした。覚悟を決めて臨む。この駅近くには有名な桜の名所がある。線路沿いにも桜並木が続いていて、電車の窓からもよく見える。桜の季節には決まって桜並木が見える側に立つようになった。いつかゆっくりあの満開の桜並木の中を歩いてみたいと思っていたが、結局、果たせなかった。しかし来年の桜は間違いなく間近で見れることだろう。ゆっくりと歩いていても少し汗ばむ。途中のコンビニエンスストアで飲み物を買う。薄曇りだが月は見える。

6日目。また少し間が空いた。かなりの距離を歩くことになるので、早めに帰ることのできる日をどうしても選ばなければならない。この駅付近には、会社の同僚との飲み会や接待で繰り出したことが何度もある。駅回りも馴染みの景色だ。しかし、それよりもぜひ立ち寄ってみたいところがある。この駅と先日降りた駅のちょうど中間あたりにある、電車の窓から見える喫茶店。その存在に気づいてからかれこれ20年以上になる。だが、まだ行ったことはない。看板には「れーるろーど」とひらがなで店名が書いてある。駅から歩いて五分程で店の前に着いた。こじんまりとした店構えながらセンスの良い飾りつけがしてある。季節の花もこまめに手入れがなされているようだ。毎日見ているのに一度も行ったことのない店。残念ながら「閉店」の札が下がっている。営業日と営業時間を確認する。来週は必ず来よう。ランチはやっているだろうか。手に持ったスポーツドリンクを一口飲み、長い道のりを歩き出す。月はあと二、三日で満月だろう。

7日目。何とか最後の "冒険" の日までたどり着いた。この二日ほどは多忙だった。少し疲れているが気持ちは軽い。今日は「途中下車」ではない。会社から自宅まで歩いて帰る。時間はたっぷりある。午前中、定年退職の辞令を役員室で受け取る。各部署へのあいさつ回りをすれば、あとは解放される。直接顔を合わせられない人には電話であいさつも済ませてある。残務処理は昨日遅くまで残って全て済ませた。社員証や定期券などを総務部に返却する。担当者から、帰りの交通費の清算ができるとの話があったが断った。どうせ電車には乗らない。

まだ明るいうちに社を出る。35年以上勤めた会社だ。会社ビルのある一画をゆっくり一周してから帰路につく。これまでで最も長い道のりになる。少々の寄り道など何のことはない。家に辿りけさえすればよいのだ。月はまだ出ていない。計算では、今夜あたり満月になることだろう。

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