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批評家ではなく実務家でありたい

常々、ずっと思っていることがある。世の中ではなぜこうも自分では作ってもいない、作れもしないものに対してアレコレ言いたがるのだろうか?

自分にできないのに他人に期待して、それを丸投げしたあげくに期待はずれの判を押す。その傲慢さに客観的に気づいた時、なんという身勝手な振る舞いだろうと恥ずかしくなる。

・・・そう、僕だよ。これは自分自身の話だ。

育児をしていて、まだこの世に生まれて数年という娘たちにあれしろこれしろと指示を出す。もちろん理解されず、実行もされない。結果、腹が立つ。

これは全て、勝手な期待をして裏切られてショック!という最初の図式とおんなじなんじゃないのか?

そもそも僕が長女と同じ5歳だった時に、ちゃんとレゴを片付けられていたのだろうか?薄い記憶では片付けそこねたレゴを親が踏んで叱られた記憶がある気もする。

こうして見ると、だんだん世の中のだいたいのミスマッチはこの形式に当てはまるようにも思えてくる。上司と部下、取引先との関係、先生と生徒、親子、友人etc...


平和へのルール

平和への第一歩として「自分にできない事を対価なく他人に期待してはいけない」というルールを課す必要があるだろう。

ポイントは「対価なく」というところだ。それも、適正な対価じゃなきゃダメだ。

別になんでも金で解決!という意味じゃない。少なくとも意見を言うならば対案や改善策や自分ならどうするかを表明するべきだ。もしくは相応の報酬を積んだ上で、顧客として言うべきだろう。

つまるところ、対案なき批判はクズだよねって言うことだ。


お互い状況も違う娘と僕。片付けろ!と怒鳴ったところで、ビビリこそすれ片付けようとは思わないだろう。どうすればいいんだこれ?

上の図式で行くなら対案を用意すべきだ。僕が娘だったらどうすれば動くんだろう?やっぱり報酬=ご褒美か?アイスクリームにチョコレート、たぶんプリキュアのガチャガチャ1回とかで余裕で吊られる。

いや、でもこの対案はダメだ。麻薬だ。いずれエスカレートするし、ご褒美がないとできない体質を作ってしまう。


とすれば・・・ここはやはり、憧れ=背中で語るしかないのではないか?

親である僕自身が徹底的な片付けを楽しく行い、清潔で整った暮らしぶりがいかに気持ちいいかを見せつけるしかない。

そう思って今、自分のPCデスクを眺めて愕然とした。

・・・自分、できてねぇじゃん。。。

言い訳をしておくと、最近ちょっとした冬場の結露のトラブルから仕事場周りのスペースを組み替えて、一次的に仕事ブースのドアを外している。

結果、僕の留守中にわがやの2歳の珍獣(次女)が侵入して付箋を全てバラバラにしたり、名刺を混ぜてみたり、アンパンマンのシールやカードが混ざっていたりしている。

・・・冬場の結露って、もうすぐ5月だし我ながら無理がある言い訳だ。


なんてことはない、娘が片付けできていないのは僕の姿を見せていたからだった。原因は僕だ。

批評家ではなく実務家を目指すべく、この連休中に仕事場周りをきっちりスッキリ片付けたいと思う。

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