見出し画像

救済と学び(二〇一九年八月コラム)

コラム目次
・お盆について
・苦難から抜けるために
・ライザップが使った超能力
・学びは救い
・南無阿弥陀仏

◎お盆について

 八月一五日は全国的にお盆の様々な行事を執り行う地域が多いだろう。運勢とは直接関係のない仏教行事ではあるけれど、日本文化というものを考えていく上で、とても重要だから少し触れておきたい。

 お盆というのは正式には「盂蘭盆会」という。これはサンスクリット語の「ウランバナ」に音を当てたもので、「ウランバナ」とは「倒懸」つまり「逆さ吊り」という意味だ。何が「逆さ吊り」かと言うのは、「盂蘭盆会経」を読んでみると分かると思う。小さな小さな可愛らしいお経だから、全文をまずは味わってみたい。本当は原文の方が味わい深いけど、それだけでは分からないから、僕なりの現代語訳を併せて掲載しておく。くれぐれも先にお伝えしておくが、あくまで村山先生や他の先生に教えてもらったものを僕なりに解釈した「だけ」のものだから、その点は理解しておいて欲しい。

(原文)*文節を「。」で切ってある。

「聞如是。一時仏在舎。衛国祇樹給孤独園。大目乾連。始得六通。欲度父母。報乳哺之恩。即以道眼。観視世間。見其亡母。生餓鬼中。不見飲食。皮骨連立。目連悲哀。即以鉢盛飯。往餉其母。母得鉢飯。便以左手障鉢。右手搏飯。食未入口。化成火炭。遂不得食。目連大叫。     悲号啼泣。馳還白仏。具陳如此。仏言。汝母。罪根深結。非汝一人力。所奈何。汝雖孝順声。動天地。天神地神。邪魔外道道士。四天王神。亦不能奈何。当須十方衆僧。威神之力。乃得解脱。吾今当為説。救済之法。令一切難。皆離憂苦。仏告目連。十方衆僧。七月十五日。僧自恣時。当為七世父母。及現在父母。厄難中者。具。飯百味。五果。汲灌盆器。香油。錠燭。床敷。臥具。尽世甘美。以著盆中。供養。十方大徳衆僧。当此之日。一切聖衆。或在山間禅定。或得四道果。或在樹下経行。或六通自在。教化声聞縁覚。或十地菩薩大人。権現。比丘。在大衆中。皆同一心。受鉢和羅飯。具清浄戒。聖衆之道。其徳汪洋。其有供養。此等自恣僧者。現在父母。六親眷属。得出三途之苦。応時解脱。衣食自然。若父母現在者。福楽百年。若七世父母。生天。自在化生。入天華光。時仏勅。十方衆僧。皆先為施主家呪願。願七世父母。行禅定意。然後受食。初受食時。先安在仏前。塔寺中。仏前衆僧呪願竟。便自受食時。目連比丘及。大菩薩衆。皆大歓喜。目連悲啼。泣声釈然除滅。是時。目連母。則於是日。得脱一劫。餓鬼之苦。目連復白仏言。弟子所生。母得蒙三宝。功徳之力。衆僧威神之力故。若未来世。一切仏弟子。亦応奉此盂蘭盆。救度現在父母。乃至七世父母。為可爾不。仏言。大善快問。我正欲説。汝今復問。善男子。若有。比丘。比丘尼。国王。太子。大臣。宰相。三公。百官。万民。庶人。行慈孝者。皆応先為。所生現在父母。過去七代父母。於七月十五日。仏歓喜日。僧自恣日。以百味飲食。安盂蘭盆中。施十方自恣僧。願使。現在父母。寿命百年無病。無一切苦悩之患。乃至七世父母。離餓鬼苦。生人天中。福楽無極。是仏弟子。修孝順者。応念念中。常憶父母。七世父母。年年七月十五日。当以孝慈憶。所生父母。為作盂蘭盆。施仏及僧。以報父母。長養慈愛之恩。若一切仏弟子。応当奉持是法。時目連比丘。四輩弟子。歓喜奉行。仏説盂蘭盆経」

(現代語訳)*あくまで僕の意訳です。

 私はこのように聞きました。お釈迦様が祇園精舎にみえたとき、(弟子の)目連が六神通(=超能力)を得て、(その力を使って)亡き両親の恩に報いたいと思い、何か出来ないものかと思った。

 道眼(=千里眼)を使って、あの世をぐるりと見渡したところ、無くなったお母さんが餓鬼に囲まれ逆さ吊りになっているのを見つけた。お母さんは飲むことも食べることも出来ず、皮と骨だけになっていた。目連は哀しみ哀れみ、(超能力を使って)母の元に茶碗いっぱいのご飯を届けた。母は茶碗を受け取り、左手に持ち、右手で食べようとしたが、口に入る前に燃えて炭に変わってしまい、ついに食べられなかった。

 目連は大泣きして、お釈迦様の元へ行き、このことを報告した。話を聞いたお釈迦様は目連に言う。

「お前の母は生前非常に深い罪を犯したようだ。お前一人の力ではどうすることもできないよ。そればかりではなく、お前のその孝行の心が天地を動かし、神々や邪魔や外道、道士に四天王までをも動かしたってどうなるわけでもあるまい。だけど、十方(=世界中)の僧たちの力を集めれば解脱できるだろう。では、今からその救済のための方法を伝えよう。そうすれば、全ての苦難が消え、憂いや苦しみから離れることが出来るだろう。

 お釈迦様が目連にこのように伝えた。

「十方の僧侶たちが、七月一五日(だから旧暦七月一五日、新暦八月一五日に盂蘭盆会が行われる)の「僧自恣の日(またどこかで説明しよう)」に七代前の先祖から現在の父母まで苦しみの中にある人々のために、いっぱいの食事といい香りの油、燭台に敷物に寝具をお供えしなさい。この世の甘美を取り分けて、世界中の大徳、僧侶を供養しなさい。

 この日はまさに、全ての立派な人々が、ある人は山で禅定に入り、ある人は四道(苦集滅道を解決する道)を体得し、ある人は樹の下でお経を唱え、ある人は神通力を自在に使い、後進を教化し、あるいは十地の菩薩が立派にその力を発揮する。そういったものたちと大衆の中にいる出家僧らも合わせ、皆が心を一つにしてそのお供え物を頂けば清浄戒を守り修行をするものたちの徳は大きく世界中に広がる。

 こういった供養を「僧自恣の日」に執り行なえば、父母も先祖も三途の苦しみから出ることが出来る。まさに「解脱」となり、もはや衣食で苦しむこともなくなる。まだ両親が健在の場合は、百年の福楽が約束される。両親が無くなっていたとしても、七代前の先祖まで天に生まれ、自在に輪廻し、光の中に入りことが出来るだろう。」

 そして、お釈迦様は世界中の修行僧に次のように命じた。

「まず施主のために祈りを捧げ、先祖父母の幸せを願い、心を静かにし、その後にお供えものの食事を頂きなさい。初めて頂くときには、まずその仏前に座り、祈願をしてからご飯を頂くのだよ。」

 その言葉を聞き、目連や出家僧、菩薩たちは大喜びし、目連の心の痛みもいつの間にか消えていった。そして、目連の母親もまた終わりの見えないような餓鬼の苦しみから救われたのだった。

 目連はお釈迦様に申し上げた。

「私達、お釈迦様の弟子は、こうして私を生んでくれた両親に三宝の功徳を蒙ることが出来ました。これは全て父母のために祈ってくれた仲間たちのお陰です。これから先に出てくるであろうお釈迦様の弟子たちも、この盂蘭盆会を奉じて、両親や先祖を救っていくことができます。そうですよね?」

 目連の言葉に耳を傾けていたお釈迦様は口を開き

「素晴らしい問いだ。私がまさに言おうとしていたことだよ。いいかい、皆。出家僧、尼、国王、皇太子、大臣、宰相、役人、そして多くの民衆が慈悲や孝行をしようとするなら、両親からご先祖様まで、今行ったように世界中の僧に祈願してもらいなさい。そうすれば今目連の母が救われたように、皆、救われることになるだろう。」(長い上に重複が多いので、簡略化した)

「仏の弟子で孝順な者は、常に父母を憶い、先祖を供養しなさい。毎年七月一五日に孝順の慈しみをもち、この盂蘭盆の教えにそって、仏や僧を供養し、父母の恩に報いなさい。一切の仏の弟子は、この盂蘭盆の教えを守るのですよ。」

 目連や他の弟子たちは、歓喜し奉った。これがお釈迦様の教えてくださった盂蘭盆の教えです。

◎苦難から抜けるために

 目連という人は、お釈迦様の十大弟子の一人だ。同じ十大弟子の一人である舎利弗と非常に仲が良く、一緒に(お釈迦様に弟子入りする前の)お師匠さんのところで学んだ。いわゆるイケメンで、頭も非常に良かったらしい。なおかつ「神通力一番」と呼ばれる超能力者。天は人に二物も三物も与えるのか。そんな人だった。

 だけど、この「盂蘭盆経」が教えるのは、そんな目連という天才をしても、亡くなった人を救うことは出来ないという事実だ。目連の神通力で届けた食事は、母親の口に入る前に燃え尽きてしまった。人間の力の限界を見た気がする。

 そこでお釈迦様が言うのが「その孝行の心が天地を動かし、神々や邪魔や外道、道士に四天王までをも動かしたってどうなるわけでもあるまい。」つまり、目連の超能力を超えるような神妙なる力を使ったって救えないというわけだ。これがまずお釈迦様が目連に言いたかったことだ。目連は神通力が使えるけれど、お釈迦様はそういった能力を好まない(お釈迦様の方が目連よりもすごい超能力者なんだが)。仏教は非常に現実的な教えだ。普通の人が普通に救われるように体系立って作られている(特に日本に入ってきた大乗仏教は)。だから、スーパーマンの存在を作ろうとしない。

 次に肝腎なのは、「自分を救うのは、他人ではない」ということ。目連がせっかくご飯を母親の前に置いても、燃え尽きてしまったのだ。だれかの救いによって救われようと思っているうちは、救われることはない。自分は自分によってしか救われない。だから「目連母。則於是日。得『脱』一劫。餓鬼之苦。」と書いているように、目連の母は自分で『脱』したわけだ。目連が、もしくはお釈迦様が救ったのではない。

 盂蘭盆経が伝えんとしているのは、主にこの二点だと思う。まずは最初の「超能力を使わない」ということを考えていこう。

◎超能力は何のためにもならない

 目連は超能力を使って母を見つけ、超能力を使って母を救おうとした。前述したように、それでは母は救われなかった。超能力っていうとオカルトかと思われるかも知れないけれど、実は現代にも似たようなことって結構ある。

「飲むだけで◯◯キロ減量!」「たった◯◯だけで偏差値があがる!」

 こんなタイトルに踊らされて、ついつい商品やサービスを購入してしまったなんて人はいないだろうか。似非科学なんてのも世の中を見渡せばたくさんある。人間、弱いもので、こういった言葉はついつい信じたくなる。僕だって、そういう誘惑に負けたことは一度や二度ではない。もちろん、そういったものが全て悪いとは言わないし、それによって救われる人がいることも承知の上で、否定する気はない。

 だけど、やっぱり本当に「救う」ってことを考えるのであれば、相手の生きる力を奪わないことを念頭に置きたい。「◯◯だけで」っていうのは、相手の考える力を奪う。我々のような鑑定士であっても、「吉方で引っ越せば間違いない」とか「名前を整えれば全て良くなる」とか言う人もいる。ときには方便として有効なこともある。だけど、「これさえしておけば」なんていうのは、あり得ない。やはり人間が幸せになるには、それなりの努力や方法論が求められる。西に金色のものを置いただけでお金持ちになれるほど人生は甘くない。家相上の吉凶はあっても、本人が「こうあろう」という決意を持たなければ何もならないのだ。

 だから、目連の「超能力で人を救おう」というのは、母親が「救われよう」という心を奪っていたということにお釈迦様は気づいていた。帆を立てなければ、船が風を受けられないように、人間というものも「自力」がなければ「他力」などない。よく「他力本願」という言葉が誤解されている。これは僕も門徒である浄土真宗の努力不足なのだろうけれど、親鸞は「他力にさえすがっていれば良い」などということを言っているわけではない。親鸞自身も真剣に生きた。実に真剣に生きて、それでも自身だけではどうにも救われることが無いと気づき、その上で「南無阿弥陀仏」と唱えたわけだ。前提に、しっかりと自力があるわけだ。その極みが「善人なおもて往生す。いはんや悪人をば」であり、悪人は「自分の罪を知っているから」救われると言っている。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏を呼ぶこと自体が、懸命に生きている証なのだろう。

 とにかく、目連の「救ってあげよう」というのは大間違いだとお釈迦様は言っている。「汝母。罪根深結。」とあるように、母親は罪が深かったのが地獄に落ちた原因なのだから、と因果関係をきちっと説明している。お釈迦様は、そういった因果を曖昧にすることを嫌う。そういえば、松江というところのお殿様に松平不昧公という名君がいる。詳細は別の機会に譲ろうと思うけれど、仏教の造詣はかなり深かった人だ。この「不昧」というのは「因果不昧」という禅宗の公案から来た名前で、仏教では因果を曖昧にしない(不昧)ということを大切にする。超能力を使って、原因と結果とのつながりを無視するように「母の罪を無かったことにしよう」というのは、虫の良い話なのだ。

◎ライザップが使った超能力

 ライザップという会社がある。「結果にコミットする」というフレーズは有名すぎるほど有名だ。有名人を起用したコマーシャルがヒットしたこともあり、爆発的に成長した。だけど、何の雑誌だったかで「これからはM&Aによって、さらに成長を加速させる」という趣旨のことを言っていたときに、僕は「危ういな」と感じてセミナーなどでもお話をさせて頂いていた。

 僕はM&A自体には割と肯定的な人間だと自負している。というよりも、後継者不足にあえぐ日本にあって、企業の買収によって存続発展出来るビジネスが増えるのであれば素晴らしい。だから、肯定的というよりも推進派とさえ言っても良い。

 それでも、ライザップの急激な成長は異常だった。そもそもパーソナルトレーニングという業態は、サービスを向上させようとすれば、生産効率は原則落ちる。このあたりは保育や福祉などの分野も同様のことが言える。労働集約型ビジネスの宿命と言っても良い。

 だけど、ライザップは積極的な拡大策を取り続けた。資産規模は拡大を続け、有利子負債もたった二年で三倍になった(二〇一六年期末と二〇一八年期末で比較)。このカラクリは何なのかと思ったものだ。パーソナルトレーニングという業態は人的リソースの量が鍵を握る。一人のトレーナーが客に張り付くタイプのビジネスは一人あたりの時間当たり付加価値の天井が決まっているのだから、売上を上げようとすれば、どうしてもトレーナーを増やすしかない。だけど、トレーナーというのは、短期間で急造出来るものではあるまい。にわか仕込みのトレーナーが増えたら、サービスの質が落ち込んでしまう。

 では一体どんなマジックを使って、資産を数倍に拡大させたのだろう。そんなことを考えたのはいつのことだっただろうか。僕がライザップへの疑問を持ち始めたのはそれからだ。テレビでは「結果にコミットする」のキャッチフレーズが踊り、社長もよくインタビューを受けていた。そんな時期だったと記憶している。その後、有価証券報告書を見てビックリした。ライザップは二〇一六年度から国際財務報告基準を適用させている。この基準というのは日本の会計基準とはかなり違う。その違いを把握せずに、「利益」という言葉に僕を含め多くのマスコミや株主も騙されていただけだった。いや、合法だから騙されていたというのは語弊がある。「黒字が出ている」「だから健常な会社だ」と思わされていたのだった。

 カラクリを言えば、一つ目が「特別損益」という概念が国際基準では無いということだ。だから、一時的な利益が「営業利益」に組み込まれ、営業利益率は一〇%を越え、ものすごい加速度で成長している会社と「認識させられて」いた。それによって、あたかも「本業が十分に儲かっている」という風に見えたのだ。だけど、日本基準で「特別損益」にあたる「その他利益」「その他損失」を営業利益から外せば、なんと営業利益は四・五%ほどまで圧縮される。これは「並」の会社の数字だ。

 次のカラクリは「負ののれん」だ。これは前述のM&Aの際に起こることだ。例えば、資産価値が一〇〇万円の会社が六〇万円で売られていたとする。資産が一〇〇万あるのに、それを六〇万円で買えば四〇万円分「お得」となる。そして、その得した分というのは、特別利益に組み込まれる。じゃないと、帳簿上、つじつまが合わなくなる(この辺は詳しく説明するつもりはありません)。そして、この特別利益は前述のとおり、国際基準では「営業利益」に算入される。これがライザップの利益を嵩上げしていた理由だった。

 これらは決して違法でもないし、責められるものでもない。だけど、ある意味「超能力」だろう。マジックのように、タネが分かれば「なーんだ」ということだけど、そのタネを見抜けていたマスメディアはほとんどなく、みなライザップの社長の手腕を持ち上げていた。

 僕だって、カルビーの元CEOだった松本さんが招かれた後に、「おもちゃ箱のような会社だと思って入社したら、壊れたおもちゃもあった」という発言をするまでは、そういったカラクリに気づけなかった。

 「負ののれん」は確かに資産価値が高いものをお買い得に買ったときについてくるものだ。だけど、問題は「なぜ資産価値があるのに安値がついたのか?」だろう。安いものにはそれなりの理由もある。ジーンズ屋さん、ジュエリー屋さん、フリーペーパー、ゲームソフト販売会社など約六〇もの様々な会社に、一見脈絡なく触手を伸ばしたライザップ。これらがどの様に事業拡大に結びつくのかはまだ不明だけど、カルビーを再建した松本さんでさえ、ほとんど「敵前逃亡」に近い形で撤退をしたのだ。そんなに簡単なことではない。

 これから瀬戸社長は目連が用いた「超能力」のような「利益を嵩上げする負ののれん」を使うことなく、本業の立て直しとさらなる拡大に精力をつぎこむべきだろう。負ののれんで買い叩いたは良いけれど、それらの会社が連結で赤字ばかり生むようでは話にならない。またライザップのダイエット理論も基本的には「糖質制限」を中心とした食事療法が基本となっていると思われる(経験者の話と、販売する食品の傾向からの予想)。糖質制限ダイエットも万人に有効なダイエット法ではない。人の健康に関わることだ。無制限に拡大しようなどと考えず、慎重な経営を求めたいと思う。

 二〇一九年五月の決算報告では九四億円の赤字を出した。瀬戸社長は強気な姿勢を崩すことはないが、市場は懐疑的だ。それでも、瀬戸社長は役員報酬を全額返上して、再建に向かう。彼の決断が、今後どのような結果を生むか、注目したい。

◎学ぶことは救うこと

 次に「自分は自分にしか救えない」ということを考えていきたい。これは「自己責任論」などでは全く無いからお間違えのないように。

 先述した通り、目連の母は「解脱」した。「救済された」わけではなく、あくまで自分の力で自分を救っていった。盂蘭盆経をサラッと読むと、その点に気づけないから、ここで解説しようと思う。

 まずは「供養」というものを考えよう。供養(プジャーナー)というのは、いわゆる日本の先祖供養のイメージでは理解しきれない。この供養というのは、「相手を尊敬する」ということだ。尊敬するというのは、言い換えれば「あなたから学ばせて頂きます」ということだ。

 では、なぜお釈迦様は世界中のお坊さんたちに呼びかけて、目連の母のために供養せよ、と言ったのか。天界の神々の力を持ってしても救えなかった人が、なぜ生身の人間である人々が供養することで救われると断言したのか。

 それは、世界中の人が、母の不憫を嘆くと同時に、供養、すなわち彼女に対し、尊敬し学ぶからだ。目連の母を尊敬し、学ぶというのは、目連の母からすれば、衆生を教え、導いたということになる。彼女は自身が周囲を教化していったことにより、自身も向上・解脱を果たしたと言うことになる。教えるということは、学ぶことと一緒であるという真理が垣間見える。つまり供養というのは本来、「成仏してください」などと祈ることよりも、故人から学び、それによって故人が自ら解脱を果たすということが目的だ。

 衆生を自らの命をもって導いたということで、目連の母は解脱を果たし、苦しみから救われる結果となる。だから、「こちらが学ぼう」と願うことが、相手が救われるきっかけとなることはよくあるということは知っておきたい。

 僕の息子は絶望的に学校のお勉強が出来ない。僕ら夫婦はともに九星気学をお伝えする身であって、その中で漢字の成り立ちについてお話をさせて頂くことも多いのだけど、その息子が全然漢字が書けない。これはマズイとおもって、漢字だけはずっと教えてきた。だけど、なかなか出来るようにならない。それでも何とかならないかと思い、学習塾にも通わせた。中学校三年生の一学期末の国語のテストは、何と「平均点の半分以下」だった。絶望の極みである。

 僕は、息子を「救済」しようとしていた。あらゆる手を尽くし、彼を漢字が分からない、文章が書けないという苦しみから救おうとしてきた。だけど、結局救われることはなかった。そんなときに、学習塾の先生との個人面談があった。そこで「パソコンを触らせてみてはどうですか?」と提案される。ビックリした。余計に漢字を使わなくなるじゃないか、予測変換で自分で言葉を生み出すことなく文章が書けてしまうじゃないか。

 だけど、僕はもう「どうにでもなれ」と思って、古いパソコンを引っ張り出し、ワードを立ち上げて触らせてみた。そこでさらに驚くことになる。国語のテストでは作文の問題でことごとく0点を叩き出し続けている息子が、実にスラスラと日記を書いている。あんなに「救おう」「救おう」と思っていた息子が、勝手に自分を救っているのだ。あぁ、こういうときに手を合わせるしかないんだな。供養とは、こういう気持ちで行わなければならないのだな、と思ったわけだ。

 この文章を読んで下さっている方の中にも、僕のように何かを教える講師のような仕事をされている方もいるかも知れない。その場合には「教えよう」なんて思わないほうが良い。教えよう、教えようと思うほどに、相手の救済は叶わなくなる。目の前の受講生から「学ぼう」と思った瞬間に、相手は救われる。

 鑑定のときもそうだ。僕はだいたい一時間の鑑定の中で二〇分も話さない。ほとんど、クライアントが話している。ジッと聴いているうちに、相手が本当に求めている言葉が見えてくる。それを見つけたら、それを伝えるだけだ。「あなたの星はああだ、こうだ」とまくしたてるような話をする鑑定士もたまにいるけれど、それでは相手は救われない。だいたい人生を良くする答えというのは、クライアント本人がすでにもっていることがほとんどだ。僕がクライアントから学び、それを言語化しているに過ぎない。

 整体もまったく同じで。整体師に体など治せない。もちろん法的にも治療家ではないのだから当然なのだけど、そこを間違えている整体師も顧客も多いように思う。

 違うのだ。整体師が体を治しているなんていうのは幻想に過ぎない。体の歪みを整えることで、顧客の体が勝手に痛みを取り、関節の可動域を改善している。その事実から目を背けてはならない。僕らが出来るのは、顧客自身では不可能な関節の動きをサポートするだけだ。結局、最後は顧客の体に手を合わせるしかないのである。

◎南無阿弥陀仏

 この文章は、締切間際に急遽書き換えた文章だ。本当は先月に宣言していたように、「デザイン経営」について書こうと思っていた。だけど、僕の知人が逝去されたことを受け、その供養のつもりで書くことにした。締切まで時間が無いこともあり、少し雑な文章になってしまったかも知れない。その点はお詫びしたい。

 この文章を書くきっかけをくれた知人は、ひまわりの様な人だった。二年ほど前だろうか、生徒さんを通じて知り合い、選名をさせて頂いた。もうそのときには既に重い病を患っていて、「人生を好転させるきっかけになれば」という切なる想いで僕らに相談くださった。

 僕は一生懸命考えて、選名をさせて頂いた。お名前を提案させていただいた後、一緒に食事にも行った。その後、お家にも招かれて、数時間の間、楽しい時間を過した。僕らがその知人の地元で勉強会を始めたときも、応援してくれるばかりか、病をおして参加くださった。辛そうな顔など全く見せること無く、気丈に振る舞っていたのが印象的だった。

 訃報を聞いてから、僕は自分でも驚くほど落ち込んだ。お通夜に参列させて頂くまでの二日間のことは、正直あまり覚えていない。「僕がした選名は本当に良かったのだろうか」。「病に悩む知人に何ら助けにならなかったのではないか」。自分では平静を保っていたつもりだったけれど、妻は異変に気づいていて、「焼き肉食べに行こっか?」と食事に誘ってくれた。僕ら夫婦は、悲しいときにはいつも焼き肉を食べる。結局、向かったのは中華料理店だったのだけど。

 お通夜では、涙が止まらなかった。たった三回だ。たったの三回しか会って話したことはない。それでも、涙は止まらず、焼香をする手は震えが止まらなかった。通夜が終わり、ご尊顔を拝見した。美しかった。本当に美しかった。長い闘病に耐えたとは思えないほど、安からに眠っている知人がいた。その姿はまさに「ひまわり」としか思えないほどの明るさを纏っていた。

 選名の通り、確かに真理をまとって旅立たれたのだと信じたい。その姿を見て、確かに僕は救われた気がした。「救おう、救おう」と思っていた自分の愚かさに気づかされ、多くのことを学ばせて頂いた。そして許された気がした。

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」

 正信偈の冒頭が頭の中で聞こえた気がした。確かに僕は、知人のお陰で救われたのだ。救おうと思いながら、その考えの浅はかさ、愚かさに気付かされて、逆に救われたのだ。

「何ということだ」

 もう手を合わせることしか出来なかった。見上げた先には、ひまわりのような笑顔と喪主のご主人が用意した大輪のひまわりが僕を見ていた。

 もう金輪際誰かを救おうなんて思うまい。ただただ、目の前の人から学びながら、生きていこう。感謝と精進で、息が絶えるそのときまで、学び続けよう。

 M先生、本当にありがとうございました。ひまわりの季節が来る度に、あなたのことを思い出します。南無阿弥陀仏。合掌。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?