最後のピース 2
会社を辞めた私は大学の研究室で秘書として働き始めた。教授も秘書も年上ばかりだから同世代の友達は見つけられないが人間関係の余計なストレスがない。定時で仕事を終えられることも多い。私はこの新しい生活に満足している。
研究室を出る頃空はまだ夕暮れだった。自転車に跨った瞬間に仕事モードがオフになる。この切替えが心地良い。いつの間にか空の藍色は静かに濃くなって、木造の家の小さな窓から光が漏れている。ぷーんと焼き魚の匂い。瞬間、私のお腹が鳴る。自転車のペダルに全身分の体重を乗せて、気持ちいい夜風を浴びる。
築30年の古びたアパートの2階。外から丸見えの渡り廊下を進み入り口のドアを開ける。狭い玄関のすぐ先に小さすぎるキッチンと左手にバスルーム。仕切りのない奥の8畳が私の城だ。
このアパートに何の愛情も持っていなさそうな老齢のオーナーは、部屋の壁も床も好きにしていいよと言った。だから私はドラマチックな柄の赤い壁紙を貼った。少しだけずれてしまったけどそれも一興。この部屋はパリのアパルトマン。自分がそう信じれば、扉を開けた瞬間に私は夢の世界にワープできる。
おばあちゃんの家から貰ってきた古いランプと丸テーブルは窓辺に温かみある雰囲気を生み出しているし、粗大ゴミとして捨てられていた小さめの木製ソファは、張り地を実家の捨てそびれたジャガード織のカーテンに替えたら良い具合に渋みが出た。「海外に住むことができれば…」と自分で抑えていた欲望を発散させたら、普通の生活すらも特別なものに感じられる。
転送シールが貼られたDMを開きながら、冷蔵庫から昨日作ったスープや常備菜を出し、冷凍ご飯をレンジに入れた。
ガチャ、ドン、ガタン。
隣の部屋に人が帰ってきた気配がする。古いアパートだからここは音が筒抜けだ。まだ会ったことのない隣人について、私は見えるもの聞こえる音だけで勝手なイメージを膨らませている。まず、住人は確実に男性である。植物をベランダで育てている。いつも帰りが遅い。力が強くて不器用。音楽の趣味がいい。テレビを見ない。だから多分読書家。私は姿の見えない隣人に勝手に好意を寄せていた。
ガタガタッ、ガッシャーン。
突然何かが割れる音。少し間をおいて「わー」という低い声が聞こえた気がした。
「ふふっ。また何か壊したのね」
私は食事する手を止めて聞き耳を立てた。割れたものはガラスだろうか。ジャラ、ジャラとガラスの破片を無造作に寄せるような音が聞こえる。隣人の家には掃除機がないのだろうか。
「いっってっ!」
痛いのがこちらにまで伝わってくる。私はふと、新しい生活を始めるにあたり自分に課したルールを思い出した。
人との距離感に遠慮しすぎるきらいのある自分にとって、2番目のルールは一番の難題だ。だからこそ、今がこのルールに則り行動を起こすべき時なのではないか。私はそんな風に思い、小さな塵取りと掃除機を抱え、隣の家のインターホンを鳴らした。
「はい?」
「先週隣に越してきた者ですが…」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
少ししてドアが開いた。隣人は想像よりもずっと背が高かった。私は簡単な挨拶を済ませ、彼に持ってきた掃除用具を見せた。
「あの、これ…必要かなと思って」
「あ。すみません、うるさかったですよね」
「いえ、いいんですけど、ありますか?掃除機」
「いえ、じゃ、ちょっとお借りします。ありがとうございます」
彼は掃除機を持って部屋に入ったのになかなか掃除を始めない。しばらくするとまた玄関に戻ってきた。
「あの、これ、コードは…?」
「ふふふ。コードはなくて、ここ押せばちゃんと動きます」
スイッチを押してブオーッという吸い込み音がすると、彼はエクボを引っ込ませた顔を腕で隠した。
「ははっ。まともに掃除したことないのがバレバレですね」
実際に顔を合わせてみて、私はさらに隣人に好感を持った。
・・・
その後も何度か隣人と顔を合わせ、その度に私たちの距離は縮まった。家具屋で働く彼は私より2歳年上で、予想通り読書が趣味らしい。
夢見がちで少し惚れっぽい私はすぐにでも彼に恋してしまいそうだったけど、その度に「恋愛に逃げない」のルールを思い出し、冷静さを保った。でも、顔を合わせれば彼はいつもエクボを見せてくれたし、私も胸が弾んだ。静かにお互いへの興味と好意を寄せていく感覚が気持ち良かった。けれど、彼は壁を1枚隔てた隣人だ。焦りは禁物。
・・・
朝、ゴミ捨て場で「おはようございます」と声をかけられた。振り返ると、柔らかな朝の日差しを浴びて恥ずかしそうに微笑む隣人がいる。
「おはようございます。今日、天気いいですね」
「ねー。はーっ」
彼はゴミ袋を持ったまま大きな身体を空に伸ばした。目を合わせ軽く会釈して帰ろうとすると、彼は「あっ…」と私を引き止めた。
「あの、本読むの好きって、言ってましたよね」
「はい」
「韓国の小説って読みます?」
「いえ、読んだことないです」
「いや、あの、昨日読み終えた本が凄い良くて、韓国のなんだけど、読みます?」
「あ、はい。いいんですか?」
彼は安堵したような顔でエクボを引っ込め「あとでポストに入れときますね」と言った。そして、ゴミを捨てる時にカラス除け用のネットを思い切り破いた。彼は目を丸くして固まり、私は笑った。
・・・
その日、天気予報は大いに外れ、昼過ぎから大雨が降った。突然の雨に降られて私は小さなバス停でひとり、雨宿りしていた。
そこに、彼が来た。
上質そうなスーツは水を弾いているが、髪は酷く濡れて肩に水が滴り落ちている。その濡れた髪の奥に見え隠れする美しい顔に、私は無意識に視線を奪われていた。
彼が私を見やり、視線がぶつかる。
小説や映画の中で描かれる「一目惚れ」とか「一瞬で恋に落ちた」とかいうものを、私は信じていなかった。でもこの日、私は初めてその表現が存在する理由を知った。突然の雨の日、私は彼という嵐に、突如巻き込まれた。
(つづく)
第2話CAST
隣人: キムナムジュン
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