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最後のピース 9

憧れの彼は、密室で甘い言葉をかけ、二度キスをし、優しく髪を撫で、耳元でおやすみと囁いた。あれからもう一日半。LINEも電話も何もない。あれは一体何だったんだろう。私はあの唇の感触を思い出すだけで身体が火照り心臓が跳ね眠れなくなってしまうのに、彼にとってはなんでもないことだったのだろうか。

「モテるに決まってるだろう」

彼の声が何度も脳内でリピートされる。慣れっこなの?遊び人なの?試しにキスしてみたけど私は不合格だったの?そんなことをずっと考えていたら、私はついに、発熱した。

「ひかりちゃん、顔赤いけど大丈夫?」

山田さんにそう言われ、念のためと熱を測ると38度もあった。熱以外の症状はなかったが、山田さんは早退を勧め、私は昼過ぎに帰宅した。

ぼーっとした頭でアパートへ戻ると、隣人は部屋の大掃除中だった。

「あれ?どうしたの?今日、もう終わり?」
「ちょっと、熱があって早退しました」
「大丈夫?何度あるの」
「38度くらい…でもあとはそんなに、平気なの」
「でも結構あるよね。病院は?」
「病院に行くほどじゃないかなと思って…少し休んだら良くなると思います」
「そう…お大事にね…。なんか必要なことあったら今日俺、家にいるから。言って」

部屋に入り、ベッドへ倒れ込み、私は死ぬように眠った。

・・・

目が覚めてカーテンを開ける。夕焼けが綺麗だ。空気がこもってムッとしている部屋に爽やかな風を取り込む。おでこに手を当ててみると熱も引いたようだ。

「恋煩いってやつかな…」

たっぷりの水を飲んで、またベッドに仰向けになった。熱が引いたからか、彼のことを思い出しても動悸はせず、背中に電気が走るような感覚もなくなった。

やっと落ち着ける…と安堵した。彼のことで思い煩うのはもうやめよう。

ただ、悪いことは重なるものらしい。

寝転がったままどんどん暗くなる部屋で、そろそろ電気をつけなきゃなんて思っていた時、非通知番号から電話が入った。

「もしもし?」
「…村崎ひかりさんですか?」
「…はい、そうですけど…」
「前にxxxってマンションの204号室に住んでましたよね?」

ぞわっと全身に鳥肌が立った。無言でいる私に男は話し続ける。

「僕、ずっとあなたのことが好きだったんですよ。引っ越しましたよね?一体今どこにいるんですか」

恐ろしくて電話を切った。するとまたすぐに非通知から着信が入る。私はスマホの電源を切り窓を閉めた。

バクバクバクと心臓が鳴る。

これってストーカーってやつ?この近くにいたらどうしよう…今の電話で場所がバレたらどうしよう…そんな恐怖で身体は固まり、頭は混乱した。

ピンポーン

突然のベルに私は失神してしまうほど驚いた。無言で何も反応せずにいると、外から「村崎さん?金南です」という声がした。私はドアを開けた。

「体調、どうですか?」
「あ…はい…」
「てか、顔、真っ青だけど」
「はぁぁ…」

私は玄関にへたり込んだ。

「大丈夫?具合、悪い?」
「いえ…あの…」

泣きそうになっている私を見て、彼は「中、入りますね」と言い、私をベッドまで運んだ。

・・・

「わー、それは、怖いね。知ってる声?」
「ううん、全然。あの、電話が繋がることで相手に場所がバレたりってあるのかな?」
「逆探知みたいな?いやー、どうだろう。警察でもない限り無理だと思うけどなぁ」
「もう、怖くて眠れないし、暑くても窓開けられないし、スマホも電源入れたくないし、でも部屋に突然押し入られた時にそれだと110番できないし」
「変な音聞こえたら、俺が、助けに来るから」
「うん…」
「あ、そうだ」

隣人は「ちょっと待っててね」と部屋を出た。隣からゴソゴソガタガタと音が聞こえる。しばらくして彼は戻ってきてそのままベランダへ行った。

「よし、と。あとはこれを…」

隣人は紐を持っている。

「ここがいいな、この辺に通してと…よし」
「なに、これ?」
「うん、ちょっと持ってて。で、俺が隣行ったら引っ張ってみて」
「うん」

彼が部屋に入ったのを見計らい私は紐を引いた。今度はすぐに、彼は手でOKサインを作って笑顔で戻ってきた。

「成功成功」
「…?」
「この紐、ベランダ越しにうちの風鈴に繋がってて引っ張れば風鈴が鳴るようになってる。だから、怖いことあったり助けが必要な時はこれ、引っ張って。俺、すぐ来るから」

隣人は目を細め、えくぼを引っ込め、私を見ている。私は嬉しさと安堵と、えも言われぬ感情が溢れ目が潤んだ。

「ありがとう」
「あ、そうだ。飯。お腹空いてない?」

そう言って、彼は玄関にぽつんと置かれたレジ袋を取った。

「これ、コンビニのだけど、もし食欲あればと思って」

中を見ると、レトルトのおかゆ、インスタントのスープ、いなり寿司、おにぎり、シロップ漬けのみかんなど沢山入っている。

「こんなにたくさん」
「そう、どれがいいかわかんなくて」
「どうもありがとう。金南さんはご飯、まだ?」
「うん」
「たくさんあるし、一緒に食べません?」
「うん。あ、ここで?」
「はい」

彼は恥ずかしそうな笑顔で頷いた。

・・・

「てか、この部屋、俺のところと全然違う」
「ああ、壁紙を変えたから」
「すごいいいね。フランス映画に出てきそうな雰囲気っていうか」
「ふふ」
「そう言えば、下の名前、なんて言うんですか」
「あ…ひかり、です」
「ひかり…いい名前だね」
「そうかな」
「うん」
「金南さんは?」
「俺は、俊って言います」
「俊…じゃあ、俊さん?俊くん?」
「あはは、俊くんで、お願いします」
「ふふふ。私、年下だけど」
「俺は、ひかりちゃん、って呼んでもいい?」
「はい」

スマホの電源は切ったまま、こうして隣人が私を守ってくれている安心でさっきまでの猛烈な恐怖や怯えはなくなり気持ちもだいぶ落ち着いた。そして、刺激的なキム弁護士より、こういう心穏やかでいられる人と恋愛するのがいいのかもなぁ、と満たされた心で思った。

・・・

その夜、眠気の来ない私は本を読んでいた。時折窓辺で風に揺れる紐を眺めては、幸せを感じた。もう0時近い遅い時間、静寂を切り裂くように突然ピンポーンとベルが鳴った。

(つづく)

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