見出し画像

最後のピース 12

隣のドアが開く音がしたので、私も部屋を出た。隣人はおっ、と驚いたような顔をした後えくぼを凹ませた。

「行こっか」

私たちは前後に並んで階段を降り、人一人分くらいの距離を空けてバスを待った。

バスは空いていた。彼は1番後ろまで行き、私を窓側に座らせた。混んでいないのだからゆったりと広く座ればいいのに、彼は後部座席の一人が座るべき場所にちゃんと、座った。大きな身体をした彼がすぐ隣にいて、バスが揺れると肩が触れ合った。

隣人と笑って会話しながらも、肩が触れるたびキム弁護士の顔がよぎった。やってはいけないことをしているのではないか。彼が悲しむのではないか。そして同時に、こんな罪悪感まみれでは隣人にも申し訳ないと思った。

バスは終点の植物園に着いた。夜のライトアップをしているそうで、彼も初めて行くのだという。彼らしいチョイスだな、と私は思った。

古びた受付で入場券を買い、貰ったパンフレットを開く。背の高い彼が覗き込むと私の目の前に彼の横顔がある。彼の聡明そうな切長の目。何かじっくり考え事をしているのがわかる口角。親しみやすさを感じさせる少し低い鼻。私の視線を感じたのか彼はこちらを見て恥ずかしそうに笑った。

「なに?なんか付いてる?」
「ううん、なんでもない」
「ひかりちゃんって、たまに凄いじーっと見てくるよね」
「あはは。そうなの、よく言われる」
「俺が話してる時も真剣な眼差し向けてくるからたまにめっちゃ緊張する」
「うふふ、ごめんね」

彼は手に持っていたパンフレットを折ってポケットに入れた。そして空いた手をズボンの腰辺りで拭くようにした後、私に片手を差し出した。

「?」
「手、繋ごう」

瞬間、キム弁護士の顔がよぎった。反応できずにいると隣人は少しだけ屈んで私の左手を取った。

私の小さな手は彼の大きくて少しゴツゴツした男っぽい手にすっぽりと包まれた。そして不思議なことに、手を繋いでしまうとキム弁護士の存在や自分の今置かれている状況を綺麗さっぱり忘れてしまった。

〈浮気する人ってこんな感じなのかもな…〉

夜中に甘い物やラーメンが無性に食べたくなって、ずっとうじうじ我慢してたくせに封を開けてしまえば2個目を食べたりスープまで全部飲んだりしてしまう、それに似た感じ、だろうか。隣人と手を繋いだ私の心は、キム弁護士という好きな人がいるのを認識しながら別の人と手繋ぎデートするのをただ俯瞰するだけで、繋いだ手を離そうだとか、これは裏切り行為だからやめたほうが良いだとか、そんな気持ちは何故か生まれなかった。人とは恐ろしいものだ。

隣人は手を繋ぐと寡黙になった。でも、それが、良かった。言葉数が減っても居心地悪くなることはなく、お互いの手が電極になって言葉を交わさずとも寧ろ何かが伝わる感じがあった。

植物園に入ってすぐのローズガーデンには人混みができていた。ピンクを始め色も形も様々なバラがライトアップされ、華やかさが一段と引き立っている。

「へ〜、薔薇ってこんなに色んな名前、っていうか種類があるんだ」
「人の名前もあるんだね。あ、これはダイアナ・プリンセスオブウェールズ、だって」
「ホントだ。言われてみればダイアナ妃っぽい…って、よくわかんないや」
「ふふ。自分の名前が付いた薔薇があるなんて、素敵だね」

少し先にパンフレットを見ながらキョロキョロと立ち止まる外国人がいる。隣人は彼に近寄り「Can I help you?」と声をかけ、流暢な英語で道に迷ったらしい彼を助けた。

「すごい!英語ペラペラなんだね!」
「ああ、いやいや。ははは」
「カッコいいね」
「小さい時に住んでたんだ、イギリス。それこそダイアナ妃が亡くなった時はそっちにいたからあの日のことも凄くうっすらだけど覚えてる」
「あれって何年?」
「97年かな。ひかりちゃんはまだ赤ちゃんだね」
「そうだね。でも意外、外国に住んでたなんて。たい焼きとか風鈴とかのイメージだったから」
「ははは。まだお互い知らないことが多いね」
「だね」

そうして私たちはライトアップされた薔薇が咲き乱れる道を手を繋ぎながら、お互いに質問をして二人で答える、という遊びを続けた。彼からの質問の多くは、仕事だとか趣味だとか好きな食べ物だとかそういうのではなく、子供の頃に好きだった遊びは何か、とか、映画を見る時は何を食べたいか、とか、雨の日は何をしたら楽しいか、とか、そんなことばかりで、そのあどけない視点と心身が休まる低い声と妙に色気のある言葉選びで私は隣人の魅力にまた飲み込まれそうになった。

ローズガーデンを抜けると次の目玉エリアまでは照明も少なく寂しげだ。仄暗い道で隣人は「あー、やっぱりダメかぁ」と私の手を引っ張ってもう枯れ始めた藤棚の下に行った。

「藤棚?ちょっと遅かったね」
「満開の時に来たかったなぁ」
「藤が好きなの?」
「いや、でも、なんかロマンチックっていうか、いいなと思って」
「ふふ」

枯れた藤棚が天井になり、灯りの少ない暗い視界が壁になり、ここにいるとまるで二人だけの空間に身を隠しているような気分だ。藤棚の隙間からは月が見える。確かに、藤が満開ならとてもロマンチックだっただろう。でも美しさと引き換えにここに人混みができることを考えると、寧ろ花が枯れて誰もいない今だからこそ、ふたりきりの淫靡な雰囲気が生まれているような気もした。道行く人は枯れた藤棚には関心もないようで、皆私たちにも気付かず通り過ぎて行く。

「ひかりちゃん」

見上げると、隣人は真剣な顔で私を見つめていた。なんとなくだが、彼が私にキスしたいと思っていることが伝わった。彼の視線や、手の湿り気や握る強さや、見えない何かが私に強いメッセージを発していた。だから、彼が私の手を引いて背中に手を回しても私は驚かなかった。彼は私を軽く持ち上げるようにして、唇を重ねた。

彼のキスは想像よりも積極的で雄々しかった。だから、鼻腔を突き抜けるほどに男の味がしたし、唇を離す時は男と女の湿っぽい、少しいやらしい音がした。

「俺、ひかりちゃんのことが好きだ」

彼は私の身体を支えたまま、真っ直ぐに私の瞳を見てそう言った。

でも、何かが違った。

キム弁護士に車で突然キスされた時の、あの電気が走って渦の中に飲み込まれるような、あの快感がなかった。皮肉なことに、私は隣人と唇を重ねて初めて、彼が運命の人ではないと確信した。

隣人にかけられていた魔法が解けると、私はキム弁護士に会いたくてたまらなくなった。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?