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最後のピース 8

火曜日。キム弁護士に会える日だ。

授業の30分前から熱心な生徒が4人、研究室前に集まっている。うち3人は女子だ。10分前にやってきた彼に生徒たちが群がった。その様子を見て、山田さんが私に目配せした。〈やっぱりね〉〈予想通りだね〉の表情で。

講義終了後もこの4人は彼と研究室へやってきた。

会議室で学生たちは彼に質問を浴びせている。彼より先に帰るわけにいかない私はデスクでPC作業をしながら聞き耳を立てた。主に男子生徒が資料について質問をしている。時折可愛らしくウフフと笑う声が聞こえる。女子たちが彼にうっとりした瞳を向ける姿が目に浮かぶ。
しばらくして会議室の電気が消え、彼が学生たちと出てきた。

「村崎さんはまだ帰らないの?」
「先生が終えられたら帰ります」
「じゃあご飯食べに行こうよ」
「え?」
「この子たちも一緒に。どこか美味しいところ、知ってる?」

・・・

車だからお酒が飲みたくなるような店は嫌だと彼が言ったので、大学近くのイタリアンへ入った。彼はカルボナーラを頼んだ。

料理を待つ間、女子たちがキャッキャと騒がしい。「聞いてよー!」「えー、恥ずかしいよー」などと言い合ったのち、一人が「先生!」と口火を切った。

「先生って、結婚されてるんですか?」
「結婚?どっちに見える?」
「えー、絶対してそー」
「はは。残念。独身です」

それを聞いた瞬間、心臓がドキンと動いた。多分、喜びが顔にも出てしまったと思う。彼の向かい側でなく隣に座っていて良かった。

「きゃー!」
「いやいやいや、僕が独身だとなんでキャーなんだ。キミと何の関係がある」
「えー。ないんですけど、でも、先生かっこいいからー」
「かっこいいとなんなんだ」
「独身の方が勉強のやる気が出ます!」
「まったく。まあ、やる気が出るならそれでよしとするか」

楽しそうに笑う女子たちはまた何か言いたげにソワソワしている。

「じゃあ、彼女は?いますか?」
「だから、それとキミと何の関係がある。まさかそんなことを聞くためにここまで来たんじゃないだろうな?」
「えー、正直それもありますけどー」
「おいおい」
「で?彼女、いるんですか?てか先生、絶対モテますよね?」
「ふっ、そりゃあモテるに決まってるだろう」
「きゃー!やっぱり!」
「はっ、これで満足か」
「もし今決まった人いないなら私も立候補していいですかー」
「やー、話にならないこと言うんじゃない」
「えーーー」

彼はストローに手をかけて笑っている。私が隣を見ると、それに気付いたのか彼も一瞬こちらを見た。私は思わず目を逸らし、ジュースを飲んだ。

結局、食事中はずっと学生たちの若い話題で盛り上がった。彼は呆れたり怒ったり大笑いしたりといつもの大人な彼とは違う一面を見せた。私はと言えば、最初から最後まで聞き役で、頭の中では彼の「モテるに決まってるだろ」が何度もこだました。

・・・

店を出て、彼と私は大学の駐車場に戻った。街灯以外には明かりのない夜道を隣り合わせで歩くのはいやでも緊張してしまう。だから私はいつもより口数が多くなった。

「講義2日目にしてすっかり生徒の人気者ですね」
「ははは、ただの客員講師なのに」
「先生はお話が上手だからきっと授業も面白いんでしょうね」
「どうだろうね。まあ、法廷で話すよりだいぶ気楽でいいよ」

ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。空を見上げると頬に雫が落ちた。

「わっ、降ってきたみたい。急がないと」
「…車乗ってきなよ」
「あ、いえ…」
「自転車でしょ?時間も遅いし、濡れちゃうし」
「あぁ…」

彼がポケットに手を入れると、少し先にぽつんと停めてある車がキュッキュッと音をたてハザードランプが点灯した。駐輪場まではもう少し歩かなければならず、雨は勢いを増していた。立ち止まったままどうするか決めかねていると、彼が私の背中に手を当てた。

「本降りになりそうだし。ほら、早く乗って」

彼は私の背中を押し、助手席のドアを開けた。身体をこわばらせたまま車に乗り込む。彼も乗って運転席のドアを閉じる。ここは密室で、二人きりで、うっすらと彼の匂いまで感じる。私は緊張しすぎてクラクラした。

「家、どっち?」
「えっと、出たところを左折、です」
「はいよ」

車内は静かだ。ワイパーと、時折ウィンカーの音がするだけで、合間にトクトクという心臓の音が聞こえてしまいそう。

「緊張してる?」
「あ…いえ」
「そんなにシートベルト握らなくても大丈夫。運転には自信あるから」
「いえ、そういうことでは、決してなく…」

信号で車が停止すると彼はハンドルに寄りかかりながら隣に座る私をじっと見た。

「村崎さんってさぁ…」
「…はい」
「ふわふわしてるよね」
「えっ…」
「可愛い」

信号が青になり、私の頬は赤になる。ドクン、ドクンと、心拍数はさらに上がり、一つ一つの鼓動が身体を揺らす。
「あ…の、そこのコンビニで右折してください」
「はいはい」
「そこ、あ、いえ、もうちょっと先の…はい、そこで停めてください」

車を停車させた彼は少し屈むようにしてアパートを覗いた。

「あの…ありがとうございました」
「いいえ」
「来週も、よろしくお願いします」
「うん」
「じゃあ…おやすみなさい」

助手席のドアを開けて外へ出ようとした瞬間、身体が座席に戻された。緊張しすぎてシートベルトを外し忘れていたのだ。それを見た彼はヒャッヒャッヒャッと窓を拭くような声で笑った。私はあまりの恥ずかしさに俯きながら、シートベルトを外そうと格闘したがうまく外れない。結局、彼が全部、やってくれた。

「やー、ちゃんと部屋まで帰れるか?」
「はい、もう、大丈夫です。ホントごめんなさい」
「心配だなぁ」
「はぁ。なんというか…恥ずかしいです」
「あ、もしかしてこれ、あざといってやつ?」
「いえ、決してそんなことは、ないんですが……おやすみなさい」
「気をつけろよ」

今度こそと助手席のドアに手をかけ降りようとした瞬間、彼は私の腕を引っ張った。身体がまた座席にふわりと戻る。彼の方に視線を向けると、私の唇は奪われた。ぽってりと柔らかい唇が私の全身を痺れさせる。

「やめた方がいい?」

一瞬唇を離し、彼が囁いた。小さく首を振ると、彼が微笑んだ気がした。

雨音とワイパー音が穏やかに響く車内で、彼はまた優しく口づけて、髪を撫で、「おやすみ」と囁いた。

(つづく)

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