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最後のピース 14

車は湘南方面に向かっている。

車中ではラジオがかかっていた。二人が無言になるとDJの耳心地のいい声だけが密室に響き、そうすると今度はその沈黙をかき消すように彼が必要以上に大きな声で同意したりツッコミを入れた。

『今韓国ではエゴマの葉論争っていうのがあるらしいんですね。自分と、自分の彼氏または彼女、そして友達の3人で食事中に…』

彼はそれを聞きながら「やー!エゴマの葉を剥がしてあげるくらいなんてことないだろう!」と声を上げた。そして私に「わたげは?どうだ?」と聞いた。

「んー…でもやっぱりちょっと嫌かもしれないです」
「意外とやきもち焼きだな」
「ちょっとだけ、ですよ」
「困ってる人を見たら助ける、って、それだけじゃないのか?くっついてる葉っぱを剥がしてあげるって普通のことだろう」
「うーん、確かに」
「だろ?逆に困ってる人が目の前にいるのに何もしない方がどうかと思うな俺は」

車の中にふたりきりになると、ランチしていた時の落ち着いた大人っぽい姿は影を潜め、また声の大きい、物言いのはっきりしすぎる彼の姿が現れる。もしやこれは、照れ隠しなのだろうか…。

・・・

七里ヶ浜の駐車場に車を置き、外へ出ると眼前には大きな海が広がっている。

「わぁ、海だぁ」

彼は両手を広げ、海の方から吹いてくる潮風を浴びて目を瞑った。

「海、好きなんですか?」
「そうだな。好きだ」
「ふふふ」
「わたげは?」
「私も、海の近くで育ったので大好きです」
「そうか」

砂浜に手を乗せてみると熱くもなく冷たくもなく、ちょうど良い温もりがあった。キム弁護士が砂浜をどんどん歩いていくのを見ながら、私は靴を脱いで裸足になり、更に海に近づいた。

「せんせーい!」

振り返った彼は波打ち際に立つ私を見ると子どものような顔で笑った。

「やー、わたげ。なんかよく似合ってるぞ」
「気持ちいいですよ!」
「おぅ、ちょっと待ってろ」

彼も靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンの裾を少し捲り上げ海に近づく。

「なんかちょっとくすぐったいな」
「冷たくて楽しいですよ」

波打ち際の湿った砂の上を歩くとそこに足跡が生まれ、すぐに波が消していく。だいぶ暖かくなったとは言えまだ春の終わりだ。波が寄せる度その冷たさにキャァと声が出る。久々の浜辺での遊びで私はすっかり童心に帰り、キム弁護士とのデートで抱えていた緊張も忘れた。ふと彼を見ると、少し離れたところからいつもの優しい瞳で私を見守っているようだ。

「先生は?足つけないんですか?」

彼は微笑みながら海に近づき、波が足元まで届くと「わー!」と大きな声をあげた。そんな彼の姿を笑っていると大きい波がやって来て、私は膝の高さくらいまで濡れてしまった。彼はお腹を抱えてヒャッヒャッヒャッと笑った。
しばらくそうやって二人ではしゃいだ。なんだかとても居心地が良くて、子供の頃を思い出すようで、私は純粋に彼との海を楽しんだ。

「風、強くなってきたな」
「はい、ちょっと寒くなってきたかも」
「そろそろ行くか」

気づけば靴が置いてある場所からだいぶ離れたところまで来ている。濡れた足のまま砂浜を歩くから足はどんどん汚れた。乾いた砂の上で片足を上げ足の裏についた土を払っていると、彼が突然私の手を掴み、波打ち際の方へ引っ張って行った。

「先生?」
「…その『先生』っていうのは、やめようか」
「あ…はい。なんて、呼べばいいですか…」
「名前で呼んでいいよ」

私の足はまた波に洗われた。冷たい。そして波が引いた瞬間、私の身体はフワッと浮いた。

「ひゃあっ」

彼は王子様みたいに私を抱きかかえ、そのまま階段を上り、私を堤防に座らせた。

「ハンカチ、持ってる?」
「はい…」
バッグからハンカチを出すと、彼はそれで私の足を拭いて、靴まで履かせようとした。
「あの、自分で履きます」
「ん…うん」

彼は靴を足元に揃えハンカチを私の膝に置いた。そして隣に腰掛けて今度は砂だらけの自分の足を手や靴下でパンパンと払った。

「ジン…さん?ジンくん?」
「わたげの好きなように呼んでいいぞ」
「あの…」
「ん?」
「私のことも、名前で呼んでほしいです」
「…ひかりって?」
「ひかり…ちゃん、が、いいかな…」
「ははは。ジンくんとひかりちゃんって、小学生みたいだな」
「変…ですかね」
「いや、いいよ。楽しかったな、ひかりちゃん」
「はい…えっと…ジンくん…?」
「そこは『うん』でいいだろ」
「…うん」
「寒くない?」
「は、…うん。ちょっと肌寒いけど、気持ちいいからもう少しここにいませんか?」

彼は「ちょっと待っててね」とこれ以上ないくらい優しい声で言って、しばらくすると私の肩にふんわりとブランケットを掛けた。

堤防に隣り合わせに座り、私たちは子供の頃の海の思い出とか彼の趣味である釣りの話をした。「先生とわたげ」は「ジンくんとひかりちゃん」になって、仕事での関係とか歳の差とかまだ出会ってから間もないことも全部乗り越えて爽やかな恋人になれた気がした。

・・・

彼が釣り仲間と集まる時に使うという店へ行った。一見さんお断り風のその店は、入りづらそうな門構えの割に家庭的な温かみに満ちていた。

「おー!いらっしゃい!」の声かけに彼が「奥の座敷良いですか?」と言うと、カウンターにいた一人客が振り返り「おー!ジンさん!」と明るく響く声で笑顔を見せた。

高校時代の後輩で釣り仲間でもあるというその人は、この店の温かい雰囲気を生み出す源泉の如くまるで太陽みたいに熱を放っていて、ごくごく自然な流れで私たちのテーブルに移り一緒に食事をすることになった。

話の振りが巧みで聞き上手なその人を前に、彼はいつも以上に声量も大きく口数も増えて楽しそうだ。テーブルに刺身が運ばれると、その人は慣れた手つきでテーブル脇の醤油を醤油皿に入れて配った。口角を上げ「さ、食べて」と目配せするその人に軽く会釈しイカの刺身を取ろうとすると、しっかり切れていなかったのか更に2、3切れほど繋がって取れてしまった。
どうしようかなと思う間も無く、向かい側に座るその人は箸で繋がった部分を剥がしてくれた。

「すみません」
「いえいえ」

その人は剥がし取ったイカの刺身を口に入れて私にニコッと笑顔を見せた。するとその瞬間、隣で喋っていたキム弁護士は私の醤油皿から刺身を奪いパクッと食べた。

「えっ…?」
「うん、美味いな。ひかりちゃんはこっちを食べなさい」

彼はイカの刺身をまた取って私の皿に乗せた。不可解な彼の行動に脳内はクエスチョンマークでいっぱいになったが、ふと、車内のラジオで聞いたエゴマの葉論争を思い出す。

(なんだ、結局許せないんじゃん♡)

声を張り上げ楽しそうに喋る彼の横顔を眺めながら、私は愛しさが募り思わず笑顔になった。

(つづく)

第14話CAST
後輩の釣り仲間: チョンホソク

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