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くまとふたり暮らし

くまと、暮らしている。

朝目覚めればいつも隣にうつ伏せのくまがいる。コシのある黒い髪はぐちゃぐちゃになって、腕も脚もまっすぐに伸ばしたまま、顔は枕の中に沈んで寝息も聞こえない。少し不安になったわたしは耳を寄せる。すると微かにすーすーと小さな呼吸が聞こえる。よかった、くまさん、生きてる。やっと安心したわたしはベッドから起き上がり身支度をする。

くまさんはいつも唐突にわたしの背後に現れる。台所に立つわたし、窓の外を眺めながら歯磨きするわたし、その辺に突っ立ってSNSをチェックするわたしの背後に突然現れて優しく覆い被さるようにわたしのからだを包み込む。

「おはよう」

くまさんは飲み頃のココアみたいな声でわたしの耳を甘やかす。くまさんのあたたかい体温と声でわたしは毎朝「しあわせ」を感じる。ほんとうはずーっとそのままくっついて一日を過ごしたい。

ダイニングに座るくまさんは起きているようで多分寝ている。眠そうな顔をしたままわたしの朝食に付き合って、テーブルに置かれた本を開いたりスープを啜ったりしながら時折わたしをじーっと見つめる。わたしは知ってる。くまさんはわたしが家を出たらすぐに布団の中に潜るのだ。そして昼過ぎまで眠る。まるで冬籠りするみたいに。

「わたしのことなんて気にせず寝てていいんだよ」

いつだったか、くまさんにそう言った。

「いいの。ボクはボクのためにこうしているの。1日は24時間でしょ?その間にどれだけ一緒にいられるかでボクの幸せが決まるんだ」

くまさんは真顔でそう答えた。その日以来、わたしは眠そうなくまさんをただそのままに放し飼いしている。

「じゃあ、いってくるね」

「いってらっしゃい。いい一日を」

大きな手を開いて優しく口角を上げる。玄関の扉から大きなからだを半分出して、エレベーターが来るまでわたしを見守ってくれる。こんなことをいつも飽きもせずしてくれる、わたしのくまさん。

・・・

帰宅すると部屋にくまさんの足跡が残っている。ソファに転がったクッション、床に落ちているポテトチップスの屑、テーブルにうっすら見えるコップの跡。今日は棚から出されたレコード数枚と何故かトランペットまであった。わたしは片付けしながらくまさんを想ってクスッと笑う。

「使った食器はシンクに置いておいてね。洗わなくてもいいから、片付けるだけならできるでしょ?テーブルに置きっぱなしにしちゃだめ」

前にそう言ったら、くまさんは大きなからだを小さく縮こめて「はぃ」と言った。それ以来、食器だけは片付けてくれるようになった。

たとえ部屋にひとりぼっちでも、くまさんの記憶や足跡が心を温めてくれる。部屋の空気に、ちゃんとくまさんが存在している。

・・・

深夜、くまさんはのっそりと帰ってくる。疲れきった顔をして。「おかえり」「ただいま」くらいの言葉だけ交わしたらシャワーを浴びて、少しだけ元気になったら冷凍庫からアイスを取り出す。パチン!と音を立てて袋を破り、ソファの上で片膝立てて、背もたれに頭をつけて、ぼーっとアイスを食べる。テレビをつけて、ものすごいスピードでチャンネルを変えていく。音楽番組もバラエティ番組もニュースもドラマも全部飛ばして、くまさんの手が止まったのは田舎のおばあさんのドキュメンタリーだった。

人里離れた山奥に一人で暮らすおばあさん。そこに孫家族がひ孫を連れてやって来る。おばあさんはとても幸せそうな顔で可愛い男の子を抱きしめた。くまさんの長い腕が伸びてきて、わたしもすっぽり包まれる。

「僕たちもこども作ろう」

くまさんはいつもそんなことを言う。

「またそんなこと言って」
「本気だよ」
「無理なこと言わないの」
「作っちゃえばこっちのもんだよ」

これはベッドへの誘い文句ではなく、くまさんの心からの欲求だ。うん、優しいくまさんならきっといいパパになるでしょう。ものすごく可愛いこぐまさんが生まれるでしょう。思えばくまさんは始めから家族を欲しがっていた。私への告白だって「付き合ってください」ではなくて「僕の奥さんになって」だったのだから。

「わたしだけじゃ物足りない?」

どんな答えが返って来るかわかっていながら、わたしはそんな意地悪を言ってしまう。

「…そんなはずないでしょ」
「ふん」
「怒ったの?」
「ふふ、ごめん、嘘」

くまさんは頬に頬をくっつけてぎゅっとわたしを抱きしめた。

「一緒にいてくれてありがとう…でもさ、ボクたちのこども、きっとすごく可愛いと思わない?」
「そうだね、いつかの、楽しみだね」
「うん」

くまさんはまた何かを思い出したように立ち上がって本棚からレコードを取り出した。くまさんの大きな手はあっさりジャケットからレコード盤を抜き出して、丁寧にレコードプレーヤーに置いたあと静かに針を落とす。音楽が流れ出すと白黒映画の紳士みたいに鮮やかに振り向き、レコードから流れる声に合わせて歌うフリをする。

"Heaven I’m in heaven…"

そして悪戯っぽい笑顔でステップを踏むようにわたしに近づき手を差し出した。

「Shall we dance?」

こんなキザなことをしても可愛く見えるのはやっぱりくまさんだからなの?それともわたしが恋をしているから?くまさんに腕を引っ張られ自己流のステップでダンスを踊れば気分はフレッドアステアとジンジャーロジャース。お酒も飲んでないのにどうしてこんなに心がふわふわするんだろう。そう言えばわたし、くまさんと喧嘩したことないな。なぜだかいつも心穏やかに笑顔でいられるんだもん。そんなことを思っていたら、からだまでふわりと浮いた。

「寝る時間だよ」

レコードの音楽はかかったまま、くまさんは軽々とわたしをベッドへ運ぶ。帰ってきた時のあの疲れた顔はどこへやら、くまさんは遠足前の小学生みたいな顔をしている。

「ねぇ。わたし、幸せ」
「ボクも」

くまさんの温もりに包まれて、今日という一日が終わる。

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