見出し画像

最後のピース 5

キム弁護士の講義が終わるまで、研究室で一人、時間を潰した。今日に限って特に残った仕事もなく、私は彼の授業のシラバスと資料を眺め、判例を読み始めたあたりで今朝の早起きが祟り強烈な眠気に襲われた。何度もコクンコクンとなるので「まだあと20分もあるし」と机に伏せて少しだけ、仮眠した。

トントン、と肩を叩かれて目を覚ました。はっ!と身体を起こすとコーヒー片手に私を見ている彼がいる。

「すみません!私ったら…、今、いらっしゃったんですか?」
「うーん、5分前くらい?」
「えっ…」
「僕が来ても起きないんだもん」
「嘘、やだ…ごめんなさい」
「判例読んだら眠くなっちゃった?」

彼はヒャッヒャッヒャッと悪戯っぽく笑った。私は恥ずかしさでいたたまれない気持ちになる。あぁ、なんという大失態。彼は笑いながらコーヒーを一気に飲み干し、カップをゴミ箱に捨てた。

「僕はそろそろ帰りますね。教授によろしく伝えておいてください」
「はい。あの、今日は、お疲れ様でした」
「うん、またLINEに連絡します」
「はい」
「じゃあね。早く寝るんだよ」

悪戯っぽくそう言った彼にお辞儀すると、彼は軽く手を上げてそのまま研究室を出て行った。エレベーターのドアが開閉する音を確認して、私は自分の頭をポカポカ叩いた。

「も〜!バカバカバカ!ダメすぎだよ私」

落ち込んだ私は少し時間を空けてから退室した。外はもう真っ暗で、キャンパスの街灯は人のいない道を照らしている。駐輪場までは5分ほど歩く。雲ひとつない空を見上げると綺麗な満月が浮かんでいた。

私は月が好きだ。まんまるの月を見ていたらさっきの失敗なんて綺麗さっぱり忘れられた。気分の良くなった私はルンルンと時折空を見上げては小さく鼻歌を歌い月夜を満喫した。足元を見るとふわふわのたんぽぽがいくつも咲いている。一本摘み、フーッと綿毛を飛ばす。暗い夜空に白い綿毛が飛んでいく。

「でも、今日、楽しかったな…」

キム弁護士を思い出すと自然と笑顔になった。ふとさっき自分の肩に触れた彼の指の感触が蘇る。

綿毛のなくなったたんぽぽの茎をエイッと遠くに投げ、私はリュックの肩紐を握り小さくスキップしながら駐輪場へ向かった。

・・・

翌朝、ハーブティーを飲みながらゆっくりメールチェックしている時だった。スマホは一度ブーっと振動し、それからひっきりなしにブーブーブーブーと机を揺らし続ける。驚いてスマホを持ち上げ画面を見るとキム弁護士からのLINEが何通も入っている。

来週配る資料と音声ファイルを送ります。
文字起こしお願いします。

イヤホンを耳に入れ、彼から届いた音声ファイルを開く。

「x月x日第2回講義、資料1…」

まるで彼が私の耳元に話しかけているみたいで胸がドキドキした。スマホをもう一度確認すると音声ファイルは3つもあった。昨日の夜に授業を終えたばかりなのにもうこんなに仕事を振ってくる彼に尊敬の念を抱く。やはり、彼は只者ではない。

私は一気に身が引き締まり、午前はずっと、彼の声を文字起こしするという幸せすぎる業務に没頭した。

数時間後、文字起こししたファイルを彼に送ると「👍」だけが届いた。

・・・

その翌日も朝早くからLINEが届いた。

昨日の文字起こし、推敲して資料として形あるものにしてください。
完成したものはPDFで。

その日、私は忙しかった。だから家に仕事を持ち帰り作業した。

・・・

また翌日も、昼過ぎにLINEが届いた。

次回授業に必要な文献がそちらの図書館にはないようです。
僕の手元にあるので事務所に取りに来れますか。
今日なら21時まで、明日土曜は午前中なら事務所にいます。

嘘でしょ…。非常勤講師の秘書ってこんなに忙しいものなのだろうか。私は山田さんに話を聞いてもらった。

「え?文献を取りに行く?」
「はい…うちの図書館にないみたいで」
「あっちの秘書さんにやらせれば良いのに。スキャンするくらいの仕事でしょ?」
「そうだと思うんですけど…」
「というか、送ればいいのにね。速達なら明日着くじゃない」
「確かに…」
「今日、忙しいの?」
「いえ、普通なんですけど…でも明日行きます」
「私でできることならやっとくよ?」
「いえいえ、それは良いんです」
「先生カッコいいけどあんまり当たりくじじゃなかったね。でもさ、どんだけ立派な事務所か見ておいでよ。私にも後で教えてね」
デスクに戻り、私はキム弁護士に「明日の10時に伺います」と返事した。

・・・

「あぁ、今週は忙しかったなぁ…」

私は力なく自転車のペダルを踏んだ。冷蔵庫に食材が不足してることを思い出し、途中でスーパーにも寄った。

やっと家に着き、自転車を置いてアパートを見上げると部屋の前に人影がある。

「あれ?お兄ちゃん?」

階段を駆け上がると腕を組み手すりに寄り掛かっていた兄が「よっ」と手を挙げた。

「思ってたより遅いな」
「いつからいたの?」
「ん、15分は待ったぞ。つーか、ひかり、なんでこんな渋いアパート選んだ」
「えー、でも中はキレイだよ。さ、どうぞ」

3歳上の兄は都内の私立高で教師をしている。スーツの上に大きめのカーディガンを羽織りメガネをかけた姿は一見地味だが、兄は昔からすごくモテる。去年、バレンタインの翌日に家に行ったら女子生徒から貰ったらしいチョコの山ができていたほどだ。確かに優しいし男らしいし、妹の私でもモテる理由が理解できる。

「なんか買ってきたの?」
「おう、一緒に食おう」
「やったー!今日ご飯作るの面倒だったんだぁ」
「疲れてる?」
「うん、ちょっと」
「大学職員なんて楽なのかと思ってたけどな」 
「うん、楽は楽、なんだけどね…」

テイクアウトの夕飯を小さなテーブルで食べた後もふたりで缶チューハイを飲みながら楽しくお喋りした。兄は基本ボソボソと、時に声を張り上げてもの凄く面白い話をしてくれる。久々に大笑いしたからさっきまでの疲れは一気に吹っ飛んだ。

・・・

兄を見送るため外に出るとちょうど隣人が帰ってきた。彼は兄の姿を見てビクッと反応し、兄はそんな隣人に威圧感を与えるような視線を送った。

「こんばんは。あの、うちの兄です」
「あ、あぁ!お兄さん、ですか」
「どうも」
「隣に住んでる『きんなん』と言います」
「え?きんなん?」
「はい、金色に南で『金南』です」
「珍しいですね」
「はい、よく言われます」
「お隣さんと仲良いのも珍しいしね」
「あ、はは」
「うちの妹をよろしく…っていうのはなんか違うか」
「何言ってるの、お兄ちゃん」
「いや、なんか、身体も大きいし、安心だなと思って」
「あはは、ボディガード役しっかり務めます」

兄は鼻でふふっと笑い「頼みますよ」と一言、アパートを去った。

(つづく)

第5話 CAST
兄: ミンユンギ
隣人(金南さん): キムナムジュン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?