最後のピース 11
「今夜は僕が見守るので、ご心配なく」
彼が隣人に告げたその言葉のせいで私の思考は停止した。
「あの…先生?」
「ん?」
「今日、ここに、泊まるんですか?」
「おう」
「…」
「襲ったりしないから安心しろ」
「いや、あの…」
「わたげはベッドで寝て。俺は床で寝る」
そう言って彼はジャケットを脱ぎ、すでに緩んでいたネクタイを解くと第2ボタンまで開け、袖を肘のところまで捲り、クッションを枕代わりに床に敷いているラグの上に仰向けになった。でも、彼はラグより上背があるから膝下部分がフローリングに直に触れている。
「私は大丈夫ですから家に帰ってちゃんとしたところで寝てください」
「やー。だから、大丈夫だ。こう見えてどこででも寝られるタイプなんだ、俺は」
「でも…」
何を言っても聞いてくれそうにないので、私はタンスの奥から冬に使っていた毛布を取り出し、渡した。彼は「おー、こんないいものがあるんじゃないか」なんて笑って毛布を床に敷いてまた寝転がった。
電気を消す。おやすみの挨拶を最後に部屋に静寂が訪れた。私は、眠れない。だってベッドのすぐ下に彼がいるのだ。しかも、仰向けで目を瞑る彼は暗闇の中でも発光しているかのように美しい。私は横を向き彼を眺めた。
トク、トク、トク。
また心臓が暴れ出す。少しでも物音を出すと彼が目を開けそうで、だから私は胸に手を当てて「落ち着け、落ち着け」と念じた。
「眠れない?」
もう寝てしまったと思っていた彼がボソッと私に尋ねた。
「…はい、まだ寝てないです」
「ごめん。落ち着かない、よな」
「あぁ…はい」
彼はしばし沈黙した。そして、やおら胸の上で組んでいた腕を解き、瞼を開け、横向きになった。暗闇の中で私たちは目が合った。
「…好きだから、やってるんだからな」
「…?」
「わたげのことが好きだから、気が気じゃないんだ」
「…」
「もし嫌なら、明日そう言って」
「…あの…嫌じゃ、ないです」
「そう?…なら良かった」
「ありがとう、ございます」
「うん。今度こそおやすみ」
「おやすみなさい」
身体が内側から温まっていく感じ…大好きな優しい声で「好き」だなんて言葉を聞けて、心は満たされ、私はすーーっと眠りについた。
・・・
早朝に、朝食も取らず、「また来る」とだけ言って彼は去った。私はベッドに寝そべりながら、昨夜自分に起きたことを振り返り、徐々に状況を理解しつつあった。
出勤前、ゴミ捨て場で隣人にあった。お互いに気まずい雰囲気で、苦笑いすらできなかった。
「昨日は、すみませんでした」
「いや、俺こそ、なんか慌てちゃって」
「いえ、そんな…」
「あの人、職場の人?大学職員とか…?」
「…客員で教えに来てる弁護士さん、です」
「ハハッ、やっぱ凄い人なんだね。確かにいい車乗ってたもんなぁ。うーん、太刀打ちできそうにないなぁ」
「そんな…」
隣人は新しくなったカラス避けの網を持ち上げ、私のゴミ袋も置いてくれた。
「ひかりちゃんは、あの人のこと、好きなの?」
「…うん」
「そうか…」
「でも俊くんも好き」と言いたかった。但しそれは、多分誰にも理解されない感情だ。もしくは浮気心のありすぎる問題の多い女の感情だろうか。
黙って俯いていると、彼は私の前に立ち私の両肩をぎゅっと掴んだ。見上げると、背の高いカレがじっと見つめている。
「金南さん…?」
「普通はここで諦めるべきなんだろうけど、俺、こんな風に心が通じる人っていうか、価値観も合うし、波長も合うし、一緒にいると心が穏やかになる、そういう人に出会ったことなくて…俺、本気で運命なんじゃって思ってて…だから、ひかりちゃんのこと、このまま簡単に諦められない」
真剣な眼差しに心が浄化される。確かに、私も隣人が運命の人なのではと思ったことがあった。彼といると気持ちが安らぐから…。
「ひかりちゃん。俺に1回だけチャンスを下さい」
「チャンス?」
「1回デートしてください。俺があの人のことを知らないっていう体で、俺とデートしてください」
・・・
キム弁護士は夕方過ぎに我が家へやって来た。ただ、今日は忙しいからと大きな紙袋だけ渡してさっさと帰って行った。
紙袋には防犯用のグッズが使いきれないほどに沢山入っていた。私のことが心配なんだ…そう思うと昨夜の「好きだから気が気じゃない」という彼の言葉が思い出され、私はまた胸がいっぱいになった。
防犯グッズをひとつひとつ見ていた時インターホンが鳴った。そして「ひかりちゃん、金南です」という声がした。
「こんばんは」
「今日って弁護士さん、ここに泊まらないの?」
「うん、今日は、泊まらないよ」
「そう…。あのさ…ご飯まだだよね?」
「うん…」
「デート、今からでもいい?」
「今?」
「うん。出来るだけ早い方がいいから…」
「う…ん…」
「10分後にまた迎えに来る。いい?」
(つづく)
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