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最後のピース 4

カーテンを開き、窓を開ける。まだ冷たい空気とスズメの可愛い鳴き声が爽やかな一日の始まりを告げる。私は空に向かって大きく深呼吸した。

普段起きる時間より1時間も早い。なにしろ、今日はキム弁護士が来る日なのだ。私は何故だか心が浮き立っている。「別になんてことはない」と自分に言い聞かせながらも、シートパックをして、いつもよりずっと丁寧に化粧をした。

キム弁護士の講義は18時からだが、今日は初日なので早めに大学へ来るのだという。

フライパンに流し入れたホットケーキの生地にぷつ、ぷつ、と泡が出ている。今日ついに彼に対面できることを思うと、あらゆる空想がこの泡のようにぷつ、ぷつ、と現れてはぷちん、と弾けた。生地をひっくり返す。ホットケーキは期待で膨らむ私のハートみたいにふっくらと美味しそうに焼き上がった。

こんなにワクワクするの、いつぶりだろう。小学校の遠足ぶりじゃない?なんて、私は思った。

・・・

授業を終えた学生たちがちらほらとサークル活動を始めたりキャンパスを出ていく頃、私は駐車場で彼を待った。立派な黒い車が入ってきたのを見て反射的に「あれだ」と思う。運転席のドアが開き、中から颯爽と彼が現れた。

背が…高い…。
顔が…小さい…。
スーツが…異常に似合ってる…♡

薄れた記憶の中に残像だけがやっと残っていた彼が目の前にはっきりと存在している。まるで夢のようだと思いながら私は彼に駆け寄った。

「キム先生ですね。お待ちしてました」
「あ、はい、どうも」
「こちらで先生のサポートさせていただきます、村崎と申します」
「ああ、初めまして。よろしくね」

彼は慣れた手つきで名刺を差し出した。そして、それを受け取った私と目を合わせた。私の中に、初めて彼を見た時のあの感情が電気が流れるように蘇り、心臓は震えた。

はぁぁぁ…だめ…素敵すぎる…。

研究室までの道を、彼から少し距離を置いて歩いた。私はキャンパス内のどこに何があるのか、IDはいつどんな時に必要か、講義を行う建物がどこでどの入り口を使うと近いかなど、準備していたことをつらつらと説明した。彼は私の指差す方を見ては軽く相槌を打つばかりだけど、時折、私を見て品のいい微笑を浮かべた。

「学食はあそこの建物なんですが…使わ…ないですかね」
「ハハ。確かに、学食は…どうだろうな」
「6時からの講義なので、もしその前にお腹が空いてらしたら」
「そうだね」
「ちなみに8時に閉まってしまうので、講義後だと30分くらいしか時間がないです」
「その時は近場で探すかな。どこかいいところあれば教えてください」
「は、はい」

プロフィールを見て彼が自分より4つ年上だと知った私は、前の職場の4、5歳上の先輩を材料に彼へのイメージを膨らませていた。しかし、私の想像はいい意味で、外れた。彼は前職の先輩方とは、その距離感が全然違った。多分これは単純な年齢差ではなく、彼という人物の奥行きの深さ故な気がする。私の目の前にいる彼は、すごく自然体で話しやすそうな雰囲気はあるが、これまでに私が会ったことのない異次元の存在感がある。

「村崎さん」
「はい」
「僕、大学で教えるのは今回初めてで、多分、資料の用意とか結構色々と注文を出してしまうと思うんだ」
「はい」
「村崎さんの仕事を増やしちゃうかもしれないけど、よろしくね」
「大丈夫です。なんでもおっしゃってください」
「ありがとう。あとね、もし村崎さんが構わないなら、LINE交換させてもらってもいいかな」
「あ…は、はい」
「メール苦手なんだ。LINEの方が楽だし早いし、『様』とか『お世話になります』とか、村崎さんも僕に出す時そういうのはいらないから」

研究室がある建物前の芝生広場には、草の上に座って本を読んだり、友達や恋人同士で笑い合ったり、本を顔に乗せて寝たりしている学生がいて、それはまさに青春といった風情だ。そんな広場の真ん中で私たちは立ち止まり、LINEを交換した。彼のすぐ隣に立ち、お互いにスマホを近づけてあれやこれやする間、私の心臓はものすごいスピードで脈打った。ドクドクドクと、グロテスクなほどに反応する自分の心臓に「身体は正直なものだな」なんて思う。しかし、別に彼と恋愛が始まるわけでもないのに、なぜに私はこんなに興奮しているのだろうか。

研究室に着いてから彼は1時間近く教授に拘束された。私はその間、彼に頼まれた資料やプリントのコピーなどをし、彼が初めての授業を滞りなく行えるよう念入りに準備した。

「ねえねえ、ひかりちゃん」

作業する私のところに山田さんがやってきた。山田さんは子供がもう社会人と大学生という、この研究室一番の古株秘書だ。世話好きの彼女は唯一の20代である私に自分の子供を重ねるのか、私によくちょっかいを出す。

「あの先生、すっごくカッコいいね」
「そうですね」
「私見ただけでドキドキしちゃったわ」
「ふふ、やっぱりそうですか」
「しかもすごい経歴なんでしょう?凄いわねー。天は二物も三物も、ってやつね」
「うん、確かに」
「独身かな?指輪、してなかったよね?」

山田さんの言う通り、彼の薬指には指輪がなかった。でも指輪をしない既婚者なんてざらだし、独身だとしてもフリーという訳ではないし、そもそも、そんなこと私には全く関係ない。それにも関わらず、会ってすぐに彼の指に視線を向けて一喜一憂した自分を情けなく感じてしまう。私は山田さんのお喋りは受け流し、できるだけそのことを考えないよう努めた。

・・・

「どうですか?」

頭上から、高すぎず低すぎず、ちょうど耳心地の良い優しい声がした。見上げると、やっと教授から解放されたらしい彼が立っている。私が驚いて「おつかれさまです」と言い立ち上がると、彼は頬に細かな皺を作って苦笑した。

可愛い顔にキュンとしてしまった自分を冷静に戻すため時計に視線を移す。講義まであと30分だ。

「あの、授業が始まるまであちらの会議室使いますか?多分空いてるし、お仕事とか、もしされるのであれば」
「んー、や、いいかな…」
「そう、ですか?」
「ここに座って待ってます」

そう言って、彼は使っていない椅子を私の机の横に置いた。

冷静でいたい私の頭と反応してしまう私の心臓。どんどん湧いてくる余計な想像や希望やあらゆる細細とした感情が、まるで今朝のホットケーキの泡みたいにぷつぷつと現れた。早く裏返さないと私が焦げてぺったんこになってしまう。

あぁ、こんなんじゃ、先が思いやられる。

(つづく)

第4話 CAST
キム弁護士: キムソクジン

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