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まったく仕事が手につかない。
全部、あの人のせい。

昼下がり、私は乾いた都心のビル群を眺めていた。

マネジメント会議、のための会議。
各部署から選ばれたマネージャーとディレクターたちが、会議のアジェンダを出席者にどのタイミングで知らせるべきかなんていう別にどうだって良さそうなことについてあーだこーだと議論している。

はぁ。

彼らの声は徐々に機械音のように意味を持たない音になる。私はまた白昼夢にまどろんだ。

…昨夜のあの人の感触が身体から抜けない。

PCのキーボードに乗せた私の手の甲を起点に腕、肩、背中へと記憶の中の彼の指先がたどる。彼のあのしなやかな指の動きを思い出しただけで背中がぞくっとした。

(今ここであの人とふたりきりになれたら…この会議室は鍵がかかるのかしら。隣のビルからここは見えるのかしら。やっぱり誰も予約しないあの狭い会議室がいいかしら…)

あり得ないシチュエーションを夢想しながらあの人の唇の温度を首筋が思い出した瞬間、身体が疼いた。

だめだ。仕事にならない。
そして、こんなの私じゃない。

夕刻。

まるで通信速度制限がかかったみたいに処理能力が低下した自分を反省し、同時に、自分をこんなザマにしたあの人に、早朝に別れてからメールを一つも寄越さないあの人に、怒りと渇望がとめどなく溢れて抑えきれなくなる。

私は耐えられずLINEを開いた。

《そちらは雨降ってる?美味しいお魚でも》
…と、ここまで書いて、全削除。

《一日中あなたのこと考えてる。早く会いたい》
…と、本音を書けない自分を呪う。

結局、私はLINEを閉じ、スマホをデスクに置き、仕事を再開した。

「あの〜ぉ…すみません」

甘ったるい声に振り返ると新卒2年目の山本がしおらしく、モジモジと、上目遣いで私を見ている。

「なに?」
「あのぉ、これ、明日の朝まででもいいですか?私ちょっと、今日これから予定がありまして…」

女子社員からの圧倒的不支持を誇る山本。頭のてっぺんから足の爪先まで完璧なる美しさ、近寄ればいつも良い香り、仕事を舐め切っていて、甘え上手で、男性社員への媚び方がエグい。
でも、批判に負けず我が道を行く彼女を、私は嫌いではなかった。

「明日の朝。絶対ね」
「やった〜ありがとうございます!」
「次回から気をつけてね」
「はーい♡」

勤務時間中ずっと白昼夢を見ていた私に、彼女を断罪する資格などない。そして、息を吸うように自然に、自分の欲求に正直な彼女を羨んだ。

夜。

やっと集中力を取り戻した私は遅れを取り戻すべく労働に没頭する。キーボードを打つ音がフロアに響いている。

〈ブブー〉

タイピング音をかき消すように、今度はスマホがデスクを揺らし低い反響音を響かせた。

《鄭號錫が写真を送信しました》

タップすると、うっすら紅がかった焼き魚の写真が現れた。そして、また、小さな振動。

《のどぐろ好き?》

半日待ったあの人からの連絡があまりに味気なくて、私は瞬時に既読をつけたことを悔やんだ。

《ちゃんと食べたことないかも。美味しい?》

そう返事した。すぐに既読がついて安心する。

《めちゃくちゃ旨いよ。いい店教えてもらったから今度連れてくね》
《いつ戻るの?》
《金曜の予定だったけど週明けまで帰れなくなった》

(ああ、次に会えるのは来週か…)
周りに人がいないのをいいことにわざと大きな溜息をつく。するとすぐにスマホが震えた。

《週末こっちおいでよ》

・・・

金沢はやはり、雨が降っていた。

駅の改札を抜けると、あの人が立っていた。
穏やかな顔で。

「こんにちは」

こんにちは、なんて言われるの、いつぶりだろう。おはよう、とか、こんばんは、はよく言うし聞くけど、こんにちは、ってあまり聞かない。

「小雨、降ってるね」
「ずーっと雨。一昨日から」
「でも雨が似合う街だもんね」
「あ、来たことあった?」
「ううん、初めて」

それぞれ傘を差して横並びで歩く。
すでに体を重ねた関係だけど、手を繋いだり腕を組むのはなんだか恥ずかしかったから、雨が降っていて、良かった。

「昼に会うの、初めてだね」

彼は爽やかな笑顔で、でもちょっと茶化すようにそう言った。

「そうだね」
「順番がめちゃくちゃだね、僕たち」
「そうね」

沈黙が居心地悪くて、私は無駄口を叩いた。

「でもね、私、普段はそんなんじゃないんだよ。信じないかもしれないけど、真面目な人間なの。すぐにそういうこと、しないんだよ、普通はね」

横を見ると彼はニヤニヤして私を見つめている。口を♡の形にして、

「言っとくけど僕もおんなじだからね」

と私の頭をくしゃくしゃして、なんだかとても楽しげに、彼はまた歩き始めた。

「ホテルは駅の近く?」
「うん、ちょっと行った先」
「じゃあ、荷物置いてこようかな」

そう言うと彼は私の手からボストンバッグを奪った。

「このくらいなら大丈夫。僕が持つ」
「え、でも、邪魔じゃない?」
「大丈夫大丈夫」

彼の笑顔が眩しすぎて、私は何もないところで、コケた。
彼は体中で笑った。

・・・

ひがし茶屋街。
雨に濡れた石畳と木造の町屋が並ぶ景色は私の乙女心に一気に火をつけた。

重要文化財、カフェ、伝統工芸の店、雑貨店…どの店もキラキラしていて、私は女友達と来ているみたいにテンションが上がった。

「あっ!ここもカワイイ!入っても…いい?」
「うんうん、入ろ入ろ」

私が首をすくめてお願いする度、彼は目を細めて「いーよいーよ」「どーぞどーぞ」と男っぽい乾いた声で答え、背中に優しく手を当てた。
一瞬も面倒臭そうな顔はせず、買い物に迷うと適切すぎるアドバイスをしてくれる。この世にはこんな男もいるんだ、なんて私は思った。

道端にゴミが落ちていれば、拾ってゴミ箱を探す。

私よりも先に、空いたグラスに気付いてくれる。

カフェの店員にも、レジ打ちのアルバイトにも、電話の向こうの誰かにも、微笑みを出し惜しみしない。

ある店で、私たちはご当地石鹸の実演販売につかまった。話の上手なおばさん販売士は自然な流れで私の手を掴み、もこもこに泡立ったコシのある泡で左手を撫で、それを水で流すと「ほら、右手と比べてみて。すごく明るくなったでしょ?」と言った。

彼ってこの泡みたい。
私はふと、そう思った。

たっぷり空気を含んでふわふわなのに、しっかりと密度の濃い白い泡。
その泡は、私の心に溜まっていた錆とか汚れとか余分な何かをからめとり、私は確実に明るく、心軽やかに、美しくなっている。

…彼が好き。

私は心底そう思った。

・・・

夜はのどぐろが美味しいというお店に行った。

彼はとても綺麗に魚を食べた。この魚も彼に食べて貰えて幸せね、なんて、私は思った。

お酒で顔が紅くなった彼からこぼれる白い歯がなんだかとても眩しい。ぽかぽかと暖かい彼の前で、下戸なのに日本酒を飲んだ私は、まるで日向ぼっこしてる猫みたいになった。

「僕に会いたかった?」

彼は私を試すような目つきで、突然そう聞いた。

私は日向ぼっこ中の猫。だから、無駄な抵抗は、しない。

「うん、すごく。ずっと考えてた」
「仕事中も?」
「…うん。仕事が手につかなかった」

彼は俯き、グラスの縁をなぞりながら満足そうにふふっと笑った。

あ、私、この人の掌の上で転がされてる。

直感でそう思った。
そして、あの魚みたいにぜんぶ捧げたくなった。

・・・

ホテルは本当に駅から目と鼻の先にあった。

「ごめんね。ホントはキャンセル待ちしてた宿があったんだけど、無理だった。次回行こうね」
「それで荷物、置きに行かなかったの?」
「いや、まあ、それもあるけど…ね」

ツインルームは思いの外広くて、窓から見える夜景も綺麗だった。

数日前のあの夜、私は彼の沼に堕ちた。
そして今日一日、彼と過ごして、私はこの沼でしか生きられない魚になった。

「疲れたでしょ。今お湯張ってるから」

ああ、なんて細やかなの。
無意識に、私は彼の服の裾を引っ張っていた。
しおらしく、モジモジと、上目遣いで見つめていた。

「そんな表情もできるんだね」

(全部、あなたのせいだよ)
そう思いながら、私は彼にこの身を任せた。

fin.


・・・

伝わりにくいかもしれないですが、決して邪な気持ちで書いた訳ではありません。
推しのセンイルを前に、推しとの思い出を振り返り、推しへのありったけの愛を込めて書きました。チョンホソクという人の色気たっぷりの魅力と太陽みたいに明るくて優しい魅力の使い分けに半殺しにされているホソクの女の苦悩と幸福を理解していただけたら幸いです。
あと、泡とか猫とか魚とか雑多に形容ばかりしてすみません。自分でも訳がわからなくなるほど、私はこの人が好きなのです。

(もし嫌な気分になった方がいたらごめんなさい)

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