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最後のピース 3

雨は止む気配がなく、結局バスでコンビニまで行き、そこで傘を買って職場に戻った。

面倒見のいい同僚がくれたタオルで濡れた体を拭いている間も、ずっと、さっきバス停で会った男性のことばかり考えてしまう。目が合ったあの瞬間の彼の顔が頭から離れない。そして、思い出す度にドキドキする。

こんなこと、初めてだ。

あの人はあの後すぐにタクシーを呼びどこかへ去ってしまった。一体どんな仕事をしている人なのだろう…。またどこかで会えたりは…する訳ないか。

「ひかりちゃん、教授が呼んでる」
「あ、はい、教授室ですか?」
「ううん、そこの会議室」

本棚に囲まれた会議室に入ると恰幅のいい教授が真剣に本を読んでいる。

「失礼します」
「おや、外行ってたの?」
「はい、だいぶ濡れちゃいました」
「そうか、それは大変でしたね。あっ、とりあえずそこ、掛けてね」

教授は私の仕事ぶりを大袈裟なほどに褒めた後、「新しい仕事を任せたい」と本題に入った。来月から現役の弁護士を非常勤講師に迎えることになり、週に1回だけ教えにくるその弁護士の秘書業務を私に兼任してほしいとのことだった。

「とりあえずね、今週はその先生のIDを用意したり諸々の手続き関連をお願いしてもいいですか?彼の情報は今メールしますから、それを元に事務の方と、あとはあちらの秘書さんとも連携して」
「わかりました。すぐ取り掛かります」
「すごい有能な先生なんですよ」
「へぇ、そうなんですね」

私が感心したように反応すると、教授はニヤッと狡そうな笑みを浮かべ、内緒話するみたいに口に手を当ててこう言った。

「しかもね、すごくカッコいいんですよ」

自分の席に戻り、教授から早速届いたメールに添付されたその非常勤講師の写真を見て私は眩暈がした。それは、先ほど私がバス停で会った、あの人だったのだ。

キムソクジン。
1992年生まれの現在29歳。
21歳司法試験合格はその年の最年少記録。
房・ブラウン法律事務所にて企業法務を担当。

やはり、あの時に感じたオーラは本物だったのだ。私は身震いし、同時に、来月から週に1度彼の秘書ができるという事実に胸の高鳴りを抑えられなくなった。

「どうしよう…もう緊張してきた…」

・・・

家に帰るとポストに単行本が入っていた。今朝隣人が言っていた本だ。早く読んで感想を伝えたいと思う私と、スマホから離れられない私。というか、帰宅してからずっと「キムソクジン」で検索を繰り返している。ただ、SNSで彼らしき人物を見つけることはできなかった。

「キムソクジン…結婚してるのかな…あんなにカッコよくて立派な仕事もしてて…してるに決まってるよね…それに、もし結婚してなかったとしても彼女はいるよね…」

結局その夜は隣人が貸してくれた本を一度も開くことなく、私は無用な考え事だけで時間を潰してしまった。

「ヤバっ。私、早速ルール破ってた」

SNSをやらないというルールを破っていることに布団に入って初めて気付いた。今、自分の身に起きていることになんだか危険な予感がする。私はスマホをすぐに閉じ、枕に顔を埋めた。

「こらこら、私ったら。冷静に冷静に。お仕事関係の人に結婚してるかだの彼女いるかだの!もうこのことは考えない!」

・・・

一夜明ければ少しは冷静さを取り戻せた。キム弁護士の秘書とやりとりすると、あちらの空気感がこちらとは全く違って、私は彼の世界と自分の世界に違いがありすぎることも理解した。記憶の中の彼の輪郭がぼやけてくるのと同時に、彼へのほのかな恋心も少しずつ薄れていく。

ただ、彼を見た時に感じたあの胸のざわめき、心が煌めき色めく興奮、ふっと身体が浮き立ち軽やかになるあの感覚が忘れられなかった。あんな経験は生まれて初めてだったし、あれは、夢見がちな幼い頃の自分がまさに夢に見ていたような瞬間だったのだ。

・・・

星空の綺麗な夜。ベランダの窓を開け優しい風に当たりながら隣人に借りていた本を読み終えた。

ストーリーも、世界観も、表現の仕方も、何もかも、私の好みだった。だから、この本に感動した彼にも、それを私に貸してくれた彼にも、心がときめいた。

この感動と感謝をどう伝えたらいいだろう…。あいにく、彼は今日も帰りが遅いようだ。私は便箋に短く感想文をまとめ、それを本に挟み、彼のポストに入れた。

翌日、仕事から家に戻ると、ポストにまた本が入っていた。本には手紙が挟まっていた。

本、気に入ってもらえて良かったです。
感想文までありがとうございます。
感動のポイントが僕と同じで、なんというか、こちらまで感動しました。
それで、迷惑じゃなければ、この本も読んでもらえたらとまた勝手にお貸ししますね。
逆に僕におすすめがあったらぜひ貸してください。
読書好きの友人ができたようで、嬉しいです。

男臭い癖のある字で優しい文章が綴られていた。まるでラブレターを貰った時のように、高揚感を覚えた。まだお互いに下の名前も知らない間柄だというのに心は通じ合っている気がする。キム弁護士に抱いていた恋心はすっかり忘れ、私はすでに隣人に惹かれ始めていた。

(つづく)

第3話 CAST
教授: パンシヒョクPDニム

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