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最後のピース 6

土曜日の大手町は、静かだ。平日ならばスーツ姿の人々が多く行き交う綺麗な街並みに人が少ないというだけで、そこに来た私という部外者はまるで街を貸切したような気分になる。

決して近くはないこの街に、本1冊貰うためだけにやってきた。あんなに憧れの存在だったキム弁護士だが、この数日の怒涛の仕事LINEのせいで私は少し、怯えている。

法律事務所は大きなビルの20階にあった。土曜日だというのに受付には綺麗な女性がいて、名前を告げると彼の部屋まで案内してくれた。
ガラス張りの個室はすでにドアが開いていた。部屋は想像よりこじんまりとしていたが眺望が素晴らしく、デスクには彼がいた。

「失礼します」
「あぁ、ご苦労様。どうぞ、そこ座って」
「はい。あ、おはようございます」
「うん、おはよう」

彼は私を見て口角を上げた。さっきまで緊張していたのに本物を前にすると心が和むのは、きっと彼の優しい瞳のせいではないだろうか。私はそんなことを思う。

デスク脇のキャビネットから本を取り出し、彼は立ち上がった。

「はい、これ。必要なページに付箋してあるので後はよろしく」
「はい、わかりました」

彼は向かい側に座り、本の中身を確認する私を前のめりになって覗き込んだ。

「は、はい?」
「大丈夫そう?」
「多分…もしわからないことがあれば、質問…しても良いですか?」
「勿論。仕事が多くてごめんね」
「いえ、いいんです」

本をバッグにしまって所在なげにしていると彼は明るい声色で私に話を振った。

「法律事務所なんて来たことないでしょう」
「はい。でも、海外ドラマで見たのとちょっと似てる感じというか」
「あー、そうかもね」
「平日ならもっと活気があるんでしょうね」
「うん、いつもはあの辺に人が沢山いるからね。ちなみにあそこは…」

話の途中で彼のスマホが鳴った。彼は「ちょっとごめんね」と立ち上がり窓の方を向いて電話している。その間、私は部屋をぐるりと眺めた。本棚には分厚い本やファイルが沢山並び、デスク横には何冊ものファイルがうずたかく積み上がっている。写真立てや趣味を主張するようなものはひとつも置かれていない。デスクの上を見るとメモがあり、何か書き殴りされている。

「どんな字書くんだろう」

そんな好奇心で、私は首を伸ばし、メモを盗み見た。

10:00〜わたげ

メモにはそう書いてあり、下線まで引かれている。10時って今じゃないか。アポの予定が入っているのだろうか。だとすれば、私はそろそろお暇しなければならない。

電話を終えた彼は「ごめんごめん、で、なんだっけ」とソファーに戻った。

「あの、私はこれで、失礼します」
「何か予定でもあるの?」
「いえ、でも、キム先生もお忙しいでしょうし」
「僕は大丈夫ですよ」
「でも、10時からお約束、あるんですよね?」
「ん?」
「すみません。そのメモ、勝手に見ちゃって…10時にワタゲさん、って方と…」

眉間に皺を寄せていた彼は突如ブハッと吹き出した。そして、驚いている私の方を見て、笑いを堪えるようにしてうんうんと頷いた。

「それ、キャンセルになったの。だから大丈夫。せっかくここまで来てくれたからお茶でもご馳走するよ」

・・・

彼はオフィスを出て、すぐそばのパレスホテルに入った。足を踏み入れた瞬間に良い香りが漂う。優雅な雰囲気のロビーラウンジに彼は慣れたように入り、外の景色がよく見える良席へエスコートしてくれた。

「プリン、好き?」
「プリンって、あのプリンですか?」
「うん」
「す、好きですけど…」
「よし、じゃあプリン食べよう」

数日前が初対面なのに、どうして、いつの間に、私たちは一緒にプリンを食べるまでの仲になったのだろうか…。

しばらくすると、白鳥が飾られた世にも美しいプリンアラモードがテーブルに運ばれた。

「うわぁ…可愛い♡」

あまりの素敵さに私は興奮した。ただもう、その美しいデザートに目を奪われた。ガラスの器をくるくると回し、全方向から見惚れ、綺麗にカットされたフルーツの断面を人差し指で優しく撫でてみたりして、完全に自分の世界に入った。ふと、視線を感じて顔を上げると、彼は見たことないくらい優しい顔で私を見つめていて、それなのに目が合うと恥ずかしそうに視線をプリンに移した。私の心臓は跳ね、顔は一瞬で火照った。

「食べようか」
「はい…ご馳走様です」
「え?」
「あ、違う。いただきます」

彼は大きな身体を仰け反らせ大笑いした。声を高く裏返らせ、肩を上下に震わせている。

「キミは幼稚園児なのか!?」
「いえ、違うんです!こんな素敵なものを食べさせてもらえるお礼をしたかっただけで…でも言うタイミングを間違えました」
「やー、村崎さんはほんっとに面白いな」
「そんな…私他にも何か変なことしましたか…」
「いやいや、まあ、いいんだ。食べよう」

今度こそ「いただきます」と、でも小声で言い、一口、口に含む。瞬間思わず「美味しいぃぃぃ」と言葉が漏れ、全身が蕩けた。そんな私を見て彼は満足そうに笑っている。

彼はプリンをペロリと食べ、私はゆっくりゆっくり味を噛み締めながら食べた。紅茶を頼んだ私はティーポッドにまだ2杯目が残っていて、彼のコーヒーカップはもう空っぽだ。

「あ、ごめんなさい。待ってますよね」
「んー」

彼はおもむろに腕を持ち上げ時計を確認すると、私に優しく微笑んだ。

「大丈夫。ゆーっくりしていこう」

大きな窓から差し込む光よりも眩しい彼の笑顔。私はと言えば、この状況に理解が追いつかず、感情の置き場所も見つからず、憧れの彼の優しさに包まれて幸せを感じる余裕もないまま完全に迷子になっている。

(つづく)

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