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マスク越しのあなた

KTXの車内で、私は泣いていた。悲しいことがあって、ふとした時にその悲しみが込み上げて、柔らかいタオルハンカチの隅で何度も、目のきわを優しく押さえるように拭いた。マスクをしているから泣き顔はバレないけど、それでも鼻をじゅるじゅるさせて何度も目元にハンカチを持っていく私が泣いていることは、多分隣の席の男性にはバレていただろう。

だから私は余計に体を窓側に向けて、車窓から見える景色を眺めるのだ。例え外が真っ暗な田園風景でも、私は窓の外を見続けた。

あと少しでソウルに到着する。そんな時、彼からカトクが入った。

〈もうすぐかな?会いたいけど仕事が長引いてて今日は無理かもしれない〉

忙しい彼の事情はよくわかっている。だから私は〈気にしないで〉と返事した。すると今度はmp3ファイルと〈この歌、プレゼント〉というメッセージが届いた。彼のソロ曲だ。低くて落ち着く優しい声がイヤホンから私の身体中に反響する。ちょうど電車はソウルに入った。煌めく高層のビル群やライトアップされた橋や漢江の景色が車窓を流れるように移り変わり、鉄橋を渡ればまるで昔のフィルム映画を見ているような視界が広がった。その美しい景色を掴みきれない切なさと彼の寂しげだが温かい歌声はやけにマッチしていて、気付けばさっきまでの涙は引っ込んで、私は彼の歌声に優しく包み込まれた。

宿に着いてシャワーを浴び、することもなく本を読んでいた時だ。彼から電話が入った。

「もしもし?」
「何してるの?」
「ん?本読んでたよ」
「そう。疲れたでしょ」
「ううん、大丈夫」
「僕はまだ仕事が終わらない…」
「お疲れさま」
「はー、早く会いたいのになぁ」
「仕方ないよ」
「そうだ。何かリクエストはある?僕にやってほしいこととか、連れてってほしいところとか」
「んー、トランペットがどれくらい上手になったか聴きたいな」
「…」
「どした?」
「…今日夜、練習しないと」
「あはは。最近やってないんだ」
「うん…忙しかったから」
「ふふふ」
「あのさ…明日もいつになるかわからないけど、必ず会いにいくから、待っててね」
「うん」
「今日は疲れてると思うから早く寝てね」
「わかった。おやすみ」
「おやすみ」

彼の優しい話し声はまるで子守唄のように、私の心をリラックスさせ眠りを誘う。

・・・

朝、早起きした。彼は家に泊まっていいと言ったが、彼のいない家にいると面倒な感情が生まれてきそうで、私は思い切り気分を変えて韓屋に泊まることにしたのだ。

100年以上の歴史あるこの建物に朝の陽が差すと一瞬でもタイムスリップしたような気分になる。朝食は9時に部屋に持ってくると昨日チェックインの時に言ってたっけ。だから私は7時前に部屋を出てこの辺りを散策することにした。

早朝だから人が全然いない。時々おじいさんが家の前でぼーっとしているくらい。

景福宮から北へ続く三清洞通りには赤、黄色、ピンク、緑、オレンジと色とりどりの提灯が吊るされ、新緑との組み合わせが爽やかで可愛らしい。お釈迦様の誕生日が近いのね、と、前にもこの時期にソウルへ遊びに来たことを思い出す。

小さな路地に入れば開店前のカフェの看板や鉢植えされたピンクのアナベルが私を少女のような気分にさせる。

青瓦台に近付くと怖そうな警備員が所々に立っているから、私も緊張して少し早足になる。坂道を登り、小さな路地に入ってくねくねと進んでいくと途端に私は古い街並みの中にタイムスリップした。石塀と煉瓦と土壁と瓦と大きな木造りの門。韓屋が連なる通りは片側に朝の日差しが当たって更に暖かみが増している。ずっと向こうには南山タワーやビル群が見えて、その新旧が混ざり合う景色はとても美しい。昼になれば観光客で賑わうこのエリアを独り占めして、もう1時間以上歩いたというのに私の足取りは軽かった。

今なら彼も一緒に歩けそうなのにな。ふとそんなことを思う。でもきっと、今頃彼はベッドの中でぐっすり寝ている頃。布団を抱きしめ半身を出してうつ伏せ寝する彼の寝姿を想像して、私は一人マスクの中で笑った。

・・・

昼に会えるという話もなくなり、私は古びた中華でジャジャンミョンとマンドゥを食べた。斜め向かいにいるおじさんのお客が白い服を着ている私を見て「アプチマいるんじゃないの?」と声をかけアジュンマを呼んだ。緑色の前掛けエプロンを貰い首からかけるとおじさんは「そうだそうだ」と満足そうに笑った。この街はひとりでいても寂しさを感じない。

午後は彼が予約してくれた美容室へ行った。彼の美容師の友人らしいが、こんな私でも知っている有名人を数々担当しているらしい。私が「全部おまかせします」というと「自然な感じでパーマをかけましょうか」と彼は言った。でも仕上がりは女神スタイルだった。さすが韓国ね…と私は思った。こんなに綺麗にしてもらったら、彼に会いたい気持ちが溢れてしまう。一度も会えなくてもいいと、そう思って来たのに、彼に見つめられて褒めてもらいたくなる。私の中にワガママな女の心が生まれ、騒めいた。

・・・

昼のジャジャンミョンが胃にもたれて夕食は取らずに漢江公園に来た。平日だと言うのにピクニックシートを敷いて漢江の景色を楽しむカップルが沢山いる。私は橋の方に歩いて行き、他の人がするのを真似て広い階段に腰掛けた。

その頃にはさっきまでのワガママ気分は消えて無くなっていた。寧ろ、彼が可哀想に思えた。彼と同世代の男たちはこうして自由に街を歩き、夜景を楽しみ、恋人と手を繋いで思うままにロマンチックな時間を過ごしているのに、彼にはそれができない。例え一人でも、彼は漢江沿いをふらふら歩くこともできないのだろう。

ブルブルブル、とスマホが振動した。

「もしもし?」
「今どこ?」
「漢江公園」
「散歩してるの?」
「今は座ってる」
「そこから見える景色撮って送って」

私はライトアップされた橋をバックに漢江沿いで休む人たちを撮り送った。

「盤浦大橋だね」
「そういう名前なんだ」
「もう少しそこに座っててね。多分噴水ショーが見られるから」
「そうなの?」
「うん、きっと気に入るよ。あ、また後でね」

彼は忙しそうだ。私はスマホを触るでもなく、音楽を聴くでもなく、ただ階段に腰掛け橋を眺めた。しばらくするとどこからか音楽がかかり、橋から水が噴き出した。色とりどりにライトアップされた噴水はまるで虹のようで、「わぁ、きれいぃぃ」という可愛い女子の声が聞こえると私まで嬉しくなった。

ショーが終わるとあちこちから小さく拍手が起きた。立ち上がって次の目的地に向かおうとする人もいるし、まだここで時間を過ごそうと新しいビールを開ける音も聞こえる。

さーて、私はどうしようかな。そう思っていた時、突然目の前にドンと顔が現れた。私がびっくりして体を引っ込めると、その人は私の隣に腰掛けた。それは、彼だった。

「みーつけた」
「もぅ…びっくりしたよぉ」
「へへへ」
「よくわかったね」
「うん、服の模様と匂いで探したよ」
「匂いって…」

すると彼は子犬みたいにクンクンと私の首元に鼻を近づけた。

「うんうん、これこれ」
「ちょっとぉ」

彼の低い美声に気付いたのか、斜め前に座っているカップルの女の方が振り返りこちらを見ている。

「ねぇ、どうしよう」
「だーいじょーぶ」

そう言って、彼はその女に「よっ!」という感じで手を挙げた。彼女は不穏そうな表情で小さく会釈し、また前を見た。

「早く帰ろう。見つかったら大変だよ」
「えーっ、折角来たのに。次の回も見なきゃ」
「ねぇ、もう少し声小さくして。いくらマスクで顔隠れてもその声でわかっちゃう」

彼は不満そうに目を細めて私を見た。改めて彼の顔を正面から見てみるとその美しさはマスクから溢れ出ていて、マスクをしたところで確実にバレてしまいそうだと背筋が震えた。

「ダメだよ、やっぱり帰ろう。てか、帰って」
「なんでー」
「マスクしててもカッコ良すぎて絶対バレる」
「大丈夫、マギクンだと思ってるよみんな」
「マギクン?」
「うん。マスクとサギクン(詐欺師)を合わせた言葉。マスクして僕みたいに見せてる人、結構いるみたいだからさ。あ!っていうか!わぁ!」
「なに?」
「髪、綺麗だぁ」
「そう?」
「うん!可愛い!やっぱりだ、パーマ似合うと思ったんだ」

彼は大袈裟にも私の肩を両手で掴み色んな角度から見て、そのまま私を抱きしめようとした。

「ダメ、ダメだって」
「えーーーぃ」
「もし見つかったら大変でしょ。私、今だって生きてる心地がしないのに」
「綺麗な夜景見ながら好きな人を抱きしめるのの何が悪いんだよぉ」
「それは…」

私が言葉に詰まると、彼は長くて綺麗な指で顎を掻いた後、その手を私の手に絡ませてぎゅっと握った。涼しい顔をして橋の方を見ている彼を私がぼーっと眺めていると、ゆっくりとこちらに視線を向け、小さくウインクした。

「今夜はずっと一緒だよ」

世界中の誰よりも忙しい彼なのに、彼の時間は私よりもゆっくり流れているみたいだ。彼の優しい眼差しと声に包まれると私までそのゆったりとした時間の中に寝それべられる気がする。例えそれが数時間でも数分でも、彼の時間の中にいれば永遠のように感じられるかもしれない。

ここに来て、良かった。

fin.


虚妄旅行記第2弾。なんというか、テヒョン以外は全部私の本当の記憶で、前回のホビのも然りなんですが、なんとなく普段の虚妄時より浮気してる気分で若干の罪悪感を抱えていますw

KTXで泣いてる時にテヒョンのSweet Nightがかかって、まさにここに書いたような気持ちになったんです。正直なところこの曲はそんなに好きじゃなかったんですが、車窓から流れるように見えるソウルの夜景とのマッチの仕方が素晴らしすぎて、最近はお気に入りで毎日聴いてます。

私、テヒョンにずっと謝りたいと思っていたんです。書くタイミングを失ってたんですが、本当はずっと書きたいことがありました。

ラスベガス公演での飴投げつけ事件。そもそも情報を深く追わないタイプの私はTwitterで見かけたfancamで彼のその姿を見てそこそこ衝撃を受けたんです。タトゥーもタバコも女も全部なんでも来いな私が、あの動画にはちょっと「テテ、何やってるの!?」な感情が生まれ、彼を信じる気持ちが少しだけ減ってしまった。

でも、今となっては思う。ごめんね、って。そんな風に思ってしまって、「そういうことはしちゃだめだよ、バンタンのメンバーなんだから」とか上から目線で断罪に近いことを考えてしまって、テテ、ホントにごめんね。

テヒョンはMBTIでINFPなんだとか。実は私も10年以上ずっとINFPで、韓国の友達にそれを言ったら「え〜wwwインプピなの?見えないよー?」という反応をされた。簡潔に言えば、多分INFPっていうのはそういう反応をされる「ヤバめな」タイプという認識なのだろう。確かに、私は血液型がBなんですが、Bと言った時にA型集団にされるのとそれはかなり似た反応だった。

テヒョンはAB型だ。B型女の私より、そうやって勝手に変な奴ラベリングされる人生を生きてきたでしょう。しかも左利きだしね。

だから、同じINFPで多数派Aに煙たがられるB型血液を持つ私という仲間がテヒョンを理解してあげられなくてどうするの、と思うのです。キムテヒョンの実像を知る由もない私のようなファンが彼のことを信じてあげられなくてどうするの、と思うのです。

シンプルに、テヒョンは愛情深くて純粋すぎる人なんじゃないかな。そしてちょっと、人に誤解されがちなのかもしれない。

ごめんね、テヒョン。
そして、いつも優しい歌声をありがとう。

夜に見るともっと可愛い提灯
この景色が大好き…♡
ジャジャンミョンにするかチャンポンにするかいつも迷う

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