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最後のピース 13

土曜の朝だというのに6時前に目が覚めた。昨夜は眠りも浅く夜中に何度も目が覚めたというのに。

まだ少しだけ冷えた空気が残る晴れた朝。隣人とのデートの余韻が残る身体をなんとか清めたくて私は朝早くから散歩に出かけた。まだ脳が生温い感覚がある。そりゃあそうだ。夜じゅう、いや、夢の中でさえも、私は隣人とキム弁護士のキスのことばかり考えていた。正直に告白すれば、キム弁護士とはキスの次まで妄想した。まるで発情期が来たみたいな自分が怖い。だから朝の風を浴びてなんとか普通の自分に戻りたかった。

昨夜家の前で隣人と別れる時、私は隣人を傷つけないようやんわりと断りの返事をした。彼は俯きながら苦笑した後、夜空を見上げて「あーーっ」と悔しそうな声を出した。彼はえくぼを見せて「でもこれからも本好きの友達でいようね」と言ったが、私たちはもう唇を重ねた仲なのだ。もはや純粋な気持ちでは友達でいられないだろう。

「ううん、これでよかったの」

今、私の気持ちはキム弁護士にだけあった。素敵な友人を失ったかもしれないが、こうして視界がすっきりと、彼こそが私の運命だと思い込めるのは昨夜のことがあったおかげなのだ。自分で自分にそう言い聞かせ、私は部屋へ戻り、シャワーを浴び、ゆっくりとデートの支度をした。

・・・

その日は恵比寿の写真美術館に用があった。大学時代の知人と真面目な話をし迫力ある報道写真に圧倒されると、茹った私の頭はやっと冷静さを取り戻した。しかし、それも一瞬のことで、普段のまともな自分に戻れたと安心しながら写真館の外に出て、そこに大きく飾られた恋人同士の美しいキス写真を見たら忽ち頭は沸騰した。私は目をぎゅっと瞑りながら頭を左右に振ったりこめかみをコンコンと叩いたりして物理的に脳を普通に戻そうと試行錯誤した。

「わたげ、どうした」

キム弁護士が突然現れ肩に手を置いてそう言ったから、びっくりして「ひゃぁっ」と声を上げてしまった。

「大丈夫か?」
「あぁ、はい、なんでもないです」
「やー、なんでもないようには見えなかったぞ」
「いえ、あの、その…はあぁ」

キム弁護士はまたいつもの笑い方で笑った。

「ご飯まだだろ?」
「はい」
「じゃあ上で食べよう」

彼は高層階の中華レストランへ連れて行ってくれた。天気が良くて窓からは東京湾まで望むことができた。さらっとこんな素敵な店に連れて行ってくれる彼に感謝の気持ちが込み上げ前を見たら、彼は視線に気づき優しく微笑んだ。

(今日は大人っぽくてカッコいい時の先生だ…)

私はそんな風に思った。少しガサツでちょっと滑稽なくらいな時との差が激しすぎて、私はまごついてしまう。

「どうした?」
「あ、いえ。とても素敵なお店で、嬉しいなぁって思ってました」
「うん。気に入ったなら良かった」

彼は片頬だけでふふっと笑ってお皿に視線を落とした。男の割に細くて綺麗な、でも少しバランスの悪い指は長い箸を器用に動かし点心をぽってりと柔らかそうな口へ運ぶ。時々ソースや汁で艶っぽく光る彼の唇を、私は箸も動かさずにじっと見ていた。

「わたげ…」
「…は、はい」
「見過ぎだよ。早く食べなさい」
「はい…」

シュンと小さくなって点心に箸を伸ばす。彼はククッと笑いを堪えきれないように頬を緩めた。

品格ある雰囲気の空間でさらに完璧さを増すキム弁護士をチラチラ覗き見ては、彼は私のどこを気に入ったのだろうかと、彼は私に何を求めているのだろうかと考え込んでしまう。そもそも、私と彼はあまり会話という会話もしていないからお互いについてほぼ何も知らないのだ。

「あの…先生?」
「んー?」
「先生は…私のことが好きですか?」
「っ!ゴホッゴホッ」

私の唐突な質問のせいで彼はむせ、グラスに入った水を一気に飲み干した。

「っ!やーーっ!」
「大丈夫ですか?」
「やーー、君はそういう…はーーっ」
「すみません…でもだって…」

キム弁護士は困った顔をしながら俯き、また箸を動かした。

「好きでもない人と週末にこんなところに来ないぞ、俺は」
「はい…」
「それで答えになったか?」
「…あの…またまた変な質問で大変恐縮なんですが…私のどの辺が好き、なんですか?」

キム弁護士は今度は呆れ顔をして空を見た後、私を見つめてこう言った。

「知らん」
「え…」
「そんなことよくわからない。でも…」
「…」
「強いて言えば、可愛いところかな。ははっ」

そう言った後すぐに私から目を逸らした彼の首と耳は真っ赤だった。

私の心臓はスーパーボールみたいに勢い良く跳ねた。ただただ、嬉しかった。何だか自分でもよくわからないが、私たちは相思相愛なようである。特にはっきりと根拠があるわけでもないが、お互いに惹かれあっているらしいのである。

「今日、何かしたいこととか、あるか?」
「…先生ともっとお話ししたいです」
「んー。…じゃあ、ドライブでもするか」
「はいっ!」

キム弁護士との初デートはまだ始まったばかりだ。

(つづく)

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