見出し画像

ドレスコーズ「式日散花」、私の式日 #1(最低なともだち、襲撃、若葉のころ)

※ シングルカットされていない楽曲に関する記述を含みます。ご留意ください。
※ 死別に関する記述を含みます。

みなさまこんにちは。あやめです。

9月13日、ドレスコーズさんの「式日散花」が発売になりました。おめでとうございます!

一曲ごとの質量の大きさに驚くばかりで、8/9曲が事前に解禁された状態で聴くことができて、つくづく安心しました。

出逢いの数だけ、いえ、くっついたり離れたりを繰り返す遊星のような私たちの世界には、それ以上に多くの「式日」が溢れています。

まずは、私の「式日」のつづきと、それを抱きとめてくれた三つの曲について、記録しておきます。

額縁に収まるぼくら

大事な名前を私にくれたともだちの話をします。

奴は幼馴染で、幼稚園から中学校まで、自分を形作る思い出のほとんどすべてに彼がいるほど、どうしようもなく私の一部でした。

彼という絆創膏を剥がしたら、一緒に私の皮膚は剥がれて、赤い肉と黄色い脂肪が丸見えになるでしょう。

大人になるための背伸びをお互いが始めた時期に、少年と少女にはありふれた気持ちの行き違いが起こりました。落ち着いて奴の頬を叩いて、私は自分の席に戻りました。

あいつ自身よりも、あいつの男友達が憎たらしかった。容れ物の形が同じというだけで、平気な顔でそばにいられる、嫌いになる努力をせずに済む。

お互いに違う道を進んで、程よい距離の取り方を覚えてからは、彼を恐れずに、ちょうど子供の頃のように話せるようになったことが、とても嬉しかったです。

ある時、「負けるなよ」「お前は絶対に大丈夫だから」と一方的に私の心配をするようになり、自分のことは何も話さなくなりました。甘やかしてもらうばかりの関係に、私は胡坐をかいていたのかもしれません。

病院にも行かずに、彼は旅立ってしまいました。

後飾りの祭壇の隣には、成人式に一緒に撮った写真が額装されていました。「これ、結婚式の写真の代わりにさせてね」。

いつも林檎のように美しい頬をしていた袴姿の彼が笑っています。私は眠る彼の頬に施された、見慣れないチークの色を思い出していました。

電話の一本もかけなかった自分の怠慢を思えば、みぞおちの凍るような吐き気を飲み込みながら、ただ「よかった、撮っておいて」と言うほかありませんでした。

逃げた先には死を考える人が歌っていた

あんなに強くて、私が欲しい言葉をいつだって私よりも分かる奴が消えてしまった。

悲しみに捕まるたび、起き上がれないほどに全身が痛んで、眠れなくなりました。努めて考えないようにしながら、いやそうしていたからこそ、何の整理もつかないまま、彼の存在は神格化されていきました。

何ヶ月、何年、まるで区別ができなくなり、自分は彼の人生の続きまで生きる義務がある、幸せにならなければならない、何があっても、どんな時でも彼に恥ずかしくない自分でいなければならない……。

強迫的な思考の結果だけをダクトテープのように貼りつけて、仕事を離れてもなお、楽をしていないか監視する自分に苛まれ続けて、心身がくたくたでした。それでいて、どうしてこんなに苦しいのだろうと首を傾げていました。

今年5月、ひとつの人間関係から逃げ出したところで、アルゴリズムのいたずらが起こって今に至ります。

入口の「Mary Lou」こそ非常にロマンチックでしたが、楽曲を聴けば聴くほど、自分にはとても口に出せない言葉で歌う志磨先生に、激しく嫉妬しました。100%言いがかりですが、自分の情けなさ、格好悪さも含めて、本音です(あら言えた)。

ぼくは ぼくを ずっと 
愛してるのさ

ドレスコーズ「不良になる」

この素朴なフレーズにすら、強烈な羨望を覚えました。

間もなく6月9日、「最低なともだち」のMVが公開され、押し込めていた記憶が噴き出します。

「きみがいないことを わかる ことばかり」

「でも もう一度 会いたいな」
「神様 あの子をうばわないで」
私だってあの時、そう言いたかった。
今だって言いたい。
でも大人だから飲み込んだ。
こんなのはいやだと言えなかった。

「きみがいないことを わかる ことばかり」
いま、地球のどこにもきみの肉体がないこと。
あの一瞬、きみがいつものきみでなかったこと。
それを許さないことできみに償いをさせ続けてきたこと。

愛された(境界を侵犯された)少年が、許可なく愛した少年を許そうとします。許すことで神の祝福が与えられ、どうやら関係は終わらずに済んだようです。

私は彼のように許せなかった(許さなかった)のだという後悔も搔き立てられましたが、「神様」がいたのかもしれない、という視点の獲得がありました。

それは「私が許さなかったから、電話をかけなかったから、彼を亡くしたのだ」という、長年採用してきた強固な因果らしきものに、

「そうでなく、人間の物差しが読めない神様のせいだったのかもしれない、分からないけれど」
「そもそも私の行動で結果が変わったという見積りが誤っているのかもしれない、分からないけれど」

そんな小さなほつれを生じさせました。

「終劇 さばけ ぼくを」

「終劇 さばけ ぼくを もだえた 幾千の夜の せめての あかしに」
ラジオから流れたとき、
"裁かれさえすれば、赦されて楽になれると
思っているの?"と声がした。
それは内なる声ではなく、
少し遠くに聞こえる。

あの子は許されたいのに、
もう答えが返ってこないのを知っているから、
大人の顔で立ち尽くして泣いている。

「終劇 もどれるなら ひかりとなり かけてゆく」
かけてゆきたかったよ。
きみのひとりぼっちの最期の部屋に。

「最低なともだち」、「少年セゾン」まで傍観者めいていた「ドレスコーズ」が、当事者として「ひとりのともだち」とぶつかっていきます。

「ドレスコーズ」が許しを乞う立場となり、関係を結び直すか否かの決定権は「ひとりのともだち」である重喜に託されています。そんな立場にも関わらず、なぜかふたりの表情はちぐはぐです。

"因果"のほつれを直感していた私は、どちらがどちらなのか、良い意味でどうでもよくなっている感覚に気づきました。

私も許されたいし、たぶん彼も許されたかった。ただ近くにありたかった。

戯れ合うことと抱き合うことに、あの季節、どんな差異がありえたと言うのか?思い出よ。少年時代が迫り上がる。いつも、そうやって笑って崩れ落ちるまで。悪ふざけの眩しさを、光として。

『襲撃』Music Videoをめぐって──夏の日のシナリオとともに(映画監督 山戸結希)

そして見事に重喜に許されて、抱き合って、口づけて、届かない手紙さえ燃やしてしまう「ドレスコーズ」が勝利を収める様子を見て、「ゆるせない」と怒り、「でもよかった」と安堵しました。

沸々と込み上げてくる、諦念と執着、慈しみと怒りとが混濁した感情。
置き去りにされた、運命的な交錯。
あんなにも、完璧だった二人。
散らばったピースの最小単位までもが、あの頃の二人だけの所与であり、もはや取り戻すことなど、絶対にできない。
その「絶対」を受け容れられない強情さが、全ての諸悪を招いたのでは?

『襲撃』Music Videoをめぐって──夏の日のシナリオとともに(映画監督 山戸結希)

「でもよかった」とは、冒頭から悲痛な面持ちだった重喜が、焦がれていたぬくもりに再会できてよかった、の意です。

つまり重喜自身が、誰かを許せなかった自分の狭量さ、幼さ、強情さを許し、自縛の縄を解いて、何かに再会できたことに泣いているのではないかと捉えました(山戸監督のシナリオを大きく逸脱しており、あくまで私に都合の良い読みです)。

だから装置のような「ドレスコーズ」には、三部作を通じて人名が与えられていないのではないか。

何が罪なのか?
何を償えば許されるのか?
直接尋ねられなければ、誰に問うのか?
なぜ、自分で掛けた鍵を外せないと信じているのか?

「ぼくとおなじとこへ はやく」

本当は、「若葉のころ」妄想は見事に外れました〜とたのしく書きたかったのに、ずっと深刻な調子ですみません。

頭の中は半熟たまごのまま、どんどんアルバム曲が解禁されていきました。

木漏れ日のように乱反射するギターが輝いて、小さな男の子が無邪気に歌いはじめます。

「はじめにきみを 名づけたのは パパやママでは ないよ」
本当に、きみにもらったこのあだ名には
小さかったぼくがいっぱい詰まっていて、
時々いつのどっちが本物かわからなくなる。
それを見当識障害という。

「かえろうマリ ぼくとおなじとこへはやく」
「かえろうマリ どうしてなにもいわないの」
わたしは、どういうわけか生きてるから、
おなじところへいけないの。
それに取り憑かれてたこともあったけど、
いま、生きているの。
きみとちがうところにいるの。

「ぼくのマリ どこへいくの なぜおいてくの」
「かえろうマリ どうしてなにもいわないの」
ごめんね。
でもきみも、おいてったじゃん。
きみも、なにもいわなかったじゃん。
さみしかったんだよ。
おいてかないでほしかったよ。
たすけてっていってほしかったよ。
ほんとうにごめん。
きみのことゆるすから、ゆるしてほしいよ。
もうきみのせいにしないから。
きみがあいしてくれたじぶんのことを
ちゃんとあいしてゆるすから。

ひきさけないふたりだって"いえた" 若葉のころ

まるで死への呼び声にしか聞こえない詩の中には、過去形という一片の希望がありました。

「どうしたってみても ひきさけないふたりだ っていえた 若葉のころ」

メロディや音韻の都合もあるでしょう。作者が大きな意味を持たせなかった時制かもしれません。

主体さえ読み取ることができません。ぼく、きみ、ふたりを知る第三者、はたして気まぐれな神様。

しかし、どうやらこのふたりは「若葉のころ」を通過して、過去にした=大人になったのです。

その時すべての詩は反転して、まるでパラレルワールドのぼくらとすれ違ったような、ありえたはずのふたりをドレスコーズさんに見せてもらったような、胸のすく思いがしました。

これを救いなんて大仰なことばで呼びたくはなくて、もっと何気ない自然な素振りで、同じ時を生きているひとが奏でた音楽として、このからだで受け取ることができて嬉しかった。

私という器もまた、きょうという日まで生きていたのです。

それは、大人のふりをして泣いていた私が、先生に可愛いごほうびシール(しかも、光にかざすときらきらして、すごくでっかい)をもらって喜んでいるように思える、素朴な誇らしさでした。

式日を終えて、今日へと帰っていく

セレモニーが終わったところで、別れの意味がクリアになるわけでも、悲しみが綺麗さっぱり拭い去られるわけでもなく、私たちは自分の足で、自分の生活に帰っていきます。

私はとにかく苦しみから逃れたくて、まだ生きているかのように振る舞いたくて、同時に一刻も早く綺麗な意味を与えたくて、本音を認められずにずっと焦っていました。

“向こうに行けばまた会えるよ”とか“肉体は滅んでも作品として魂はみんなの心にずっと生き続けるよ”とか、綺麗事はいくらでも言えるじゃないですか。それはそうかもしれないけど《でも もう一度 会いたいな》ということですね。

2023.9.12 SPICE「ドレスコーズ 死を思いながら生を歌う、2023年に生まれるべくして生まれた運命的な作品『式日散花』」

べつになにか悟ったわけでもないし、まだつらいし、まだ会いたいし。

まして、次に愛する人にかっこよく「先に死んでも貴方を許します」と言える男前には、当面なれないでしょう。

べそべそして、すがりついて、いやだ!とは(今度こそ)言えるかもしれませんが。

“僕より先に大人にならないでね”“僕を置いて成長しないでね”という構図は、“僕の手の届かない世界に、僕を置いて先にいかないでね”という意味で“死別”とまったく同じなんです。

2023.9.12 SPICE「ドレスコーズ 死を思いながら生を歌う、2023年に生まれるべくして生まれた運命的な作品『式日散花』」

だけど、次に来たる式日のために、礼服をクリーニング屋さんに出すでしょう。涙を拭うハンカチを洗うでしょう。バッグと靴にほんの少しクリームを差して拭くでしょう。

生きているから。

想像に逃げないで、がんばって自分の言葉で話す練習をします。自分を痛めつけるんじゃなく恋人になります。あなたの好きな愛され方を知って、なるべくごきげんにあなたを愛します。

そして会いたいときに会いたい、話したいときに話したいと言います。

今あなたと生きているから。

おしまい。(#1、3/9曲)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?