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人間と自然(前編)

地球が燃えている。

火の歴史に詳しい環境史家のステファン・パインは、2015年にデジタルマガジンAeonで、今わたしたちは地球の歴史上、人の時代を意味する「Anthropocene(人新世/アントロポセン)」ならぬ、火の時代「Pyrocene(火新世/パイロセン)」を生きているのではないかと指摘した。パインは昨年夏のアマゾンやカリフォルニアの森林火災の際、「Prepare for the Pyrocene(火新世に備えよ。)」と題したエッセイの中で、「それはもはや温暖化を意味するメタファーではなく、文字通り現実を記述する言葉になってしまった」と述べているが、今回のオーストラリアの火災はさらに規模も大きく、事態はさらに深刻さを増しつつある。

We went to the top of the food chain because we learned to cook landscapes. Now we have become a geological force because we have begun to cook the planet.

パインが指摘するように、火を手にし、地上のみならず、化石燃料というかたちで地中に眠る石に火をつけながら発展してきた人類は、ついに地球そのものに火をつけてしまったのだろうか。

気づけば、年末年始に読み返していた手塚治虫もまた、まさに人間と地球を繋ぐ存在として「火の鳥」を登場させている。わたしたちはこれから「火」とどう付き合っていけばいいのだろうか。

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「人新世」とは

そもそも「人新世」という言葉を知っている人ってどれくらいいますか?
2019年のはじめごろに参加していたとあるトークイベントでモデレータがそう呼びかけたとき、会場に手を挙げる人はあまりいなかった。しかしこの1年は、日本でもグレタさんに象徴されるように気候変動がこれまで以上に大きな関心となり、「人新世」という言葉もいろいろなところで見聞きするようになった。最新号のWIRED「DEEP TECH for The Earth」でも全体を通底するキーワードになっているし、昨年公開された映画「天気の子」にもアントロポセンという言葉が劇中に登場している。

もともと、地層に刻まれた46億年の地球の歴史のうち、最後の氷期後の約1万年前から現在までの温暖な新しい時代区分を地質学では「完新世(ホロセン/Holocene)」と呼ぶが、オゾンホール研究でノーベル賞を受賞したパウル・クルッツェンらを中心に、今や我々は人類の活動が地球に大きな影響を及ぼす「人新世(アントロポセン/Anthropocene)」に入っているのではないかという主張がなされるようになり、特に2000年以降広まったと言われている。(ただし、今のところ地質学上の正式な名称ではないらしい。)

もちろん、名付けたところで何か事態が変わるわけではない。しかし46億年の地球の歴史を1年に例えれば、「完新世」の1万年という時間でさえ大晦日最後のたった1分程度のことであり、「人新世」や「火新世」という言葉は、さらに短いほんの瞬きほどの時間でしかない人類の活動が地球に影響を及ぼしているというわけで、事の重大さを強く印象付ける言葉ではある。

Believe or not?

もうひとつ昨年参加していたトークイベントで印象に残っている言葉がある。コペンハーゲンでサステナブルな建築プロジェクトに携わる環境設備エンジニアの蒔田智則さんが冒頭、「日本に戻ってきたら、気候変動や温暖化に対してまだBelieve or notの話をしている人も結構いて驚いた。世界はもうそういう段階ではない。」といったことを言われていた。以前『ニュー・ダーク・エイジ』のブックサロンで若林恵さんも指摘されていたが、昨今の世界的な危機感に対して、日本人はなんとなくピンときていない人もまだまだ多いのかもしれない。

改めて考えてみると、これまでに温暖化に対する懐疑論は様々なレベルで存在しているが、それぞれにきちんと反論できるかというと意外と自信がない。そう思って調べてみると、少なくとも今代表的な懐疑論のほとんどは否定されつつあるようだ。例えば、オーストラリアの認知科学者ジョン・クックが立ち上げた「Skeptical Science(懐疑的な科学)」というサイトには、温暖化懐疑論に対する科学的な議論がまとめらている。例えば、
Climate's changed before(気候変動は昔から起きている)
It's the sun(太陽活動のせいだ)
It's not bad(悪いことばかりじゃない)
There is no consensus(科学的コンセンサスはない)
It's cooling(むしろ寒冷化している)
Models are unreliable(気候予測モデルは信頼できない)
Temp record is unreliable(気温の記録は信頼できない)
などなど、よく持ち出される懐疑論とその科学的反論が並べられていて、日本語版のサマリーもあるので参考になる。

また、日本語の情報源としては、東北大学の明日香壽川さんによる「ゾンビのような温暖化懐疑論」という記事にも同様の指摘がある。

 ちょうど10年前、私は、何人かの日本の気候変動の研究者とともに、「地球温暖化懐疑論批判」という文書を発表した。しかし、いまだに懐疑論はネット上に氾濫(はんらん)しており、前出のような書物も相変わらず出版されている。思わず「自分たちの努力は何だったのだろうか」というむなしさを感じる。

世の中の主流になっているような、当たり前にも思われることに対して、実はそれは間違っているかもしれないという視点を持つことは重要だが、一方でそのような懐疑論は、陰謀論と同じように「自分だけが真実を知っている」という魅力がありそこで思考停止に陥りがちでもある。もちろん、自分なりの考え方をもつことは自由だが、Getting skeptical about skepticism.というSkeptical Scienceのタグラインにもあるように、懐疑論に対してもまた同じように懐疑的な態度が必要だろう。

人間と自然

哲学者の篠原雅武さんは、『人新世の哲学』の終章で、人新世とは、人類が地球に影響を及ぼすだけでなく、その地球が人類に影響を及ぼし始めている時代であることを改めて指摘する。

モートンは述べている。「人新世は、(人間の)歴史のための、安定していて人間ならざる背景という意味での自然の概念を終わらせていく」。(中略)自然は背景ではないとはどのようなことか。それは、人間は自然を自らの生活のために改変することで自然に関与してきたことを意味する。(中略)その後、2000年代になって気づかれようとしているのは、人間活動によって変えられた自然が人間生活に影響を及ぼしてしまう、ということである。人間世界の外にあり、背景でしかないと思われていたものが、現実に人間世界に影響してしまう。自然はもはや暴力を振るわれる客体ではなく、人間に反撃する主体でもある。
(篠原雅武著『人新世の哲学』より)

自然は、人間とは切り離なされた「背景」でもなければ、人間によって予測できたり、コントロールできたりする対象でもない。後編では、この切り離せない人間と自然の関係を思想やテクノロジーの歴史から紐解いてみたい。(つづく)

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