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フィルターバブルと環世界、対話と共話

2017年にNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で開催されたシンポジウムに登壇した5人のボードメンバーを中心に、さらに議論を深める場としてはじまった「情報環世界研究会」だが、ボードメンバーの間で当初から共有していたテーマの一つに「フィルターバブル」があった。

フィルターバブルとは?

世界の人々を繋げ、オープンなものにするはずだった情報テクノロジー。それが今や、データとアルゴリズムによって、広告から検索結果、SNSのタイムラインに至るまで、自分が見たいものしか見えない、異質なものが目に入らない「バブル」の中にわたしたちを閉じ込めている––。イーライ・パリザーが2011年に主張した「フィルターバブル」現象は、近年ますます顕在化し、ブレグジットやトランプ大統領の誕生などに象徴されるように、世界を分断し社会に大きな影響を与える問題となっている。

さて、そのような「フィルターバブル」をめぐる議論では、いかにバブルを「抜け出す」か、いかにバブルを「破る」かといった観点で語られることが多い。しかし、本当にそれは「抜け出す」べきもの、「破る」べきものなのだろうか。「フィルターバブルから抜け出すべし」という考え方それ自体が、ある一つの「フィルターバブル」に囚われた考え方になってはいないだろうか––。ボードメンバーが集まったキックオフミーティングではそんな会話が交わされた。

まず閉じこもることから

情報環世界』第1章は伊藤亜紗さんによる「まず閉じこもることから――身体と情報環世界」から始まる。前回も触れたように、生物学的・身体的な「環世界」という視点から見れば、あらゆる生物はそれぞれの「環世界」に閉じているとも言える。生物としてはむしろ閉じこもることの方が当たり前なのだ。もちろん、今わたしたちが直面しているような、異質なものに対する不寛容を増幅させる「フィルターバブル」の問題をそのままにしておいてよいということではない。しかし、この第1章でまずユクスキュルの「環世界」から出発し、視覚障害者の方々が一度失われた「環世界」を別の方法で取り戻していく過程を通して見えてくるのは、わたしがわたしであるために、閉じた「環世界」を持つことの大切さだ。それなしにバブルを無理やり広げたり、こじ開けたりすることは自分を見失うことにもなりかねない。そしてこれは、チームビルディングにおける「心理的安全性」の重要性にも通じる指摘だ。創造的なチャレンジができるのも、まず安心して自分が自分でいられる環境があってこそなのである。

では、それぞれの「環世界」を無理やりに開くのではなく、他者と共有しあうことはできるだろうか。情報学研究者のドミニク・チェンさんによる第2章「情報環世界をうつす[写す・移す・映す]」は、そんな問いから始まる。

「言語」というプロトコル

コンピュータやインターネットなどのいわゆる情報テクノロジーについて語る前に、まず人間にとっての「情報環世界」が生物的な「環世界」と大きく異なるところは、「言語」という相互のコミュニケーションを図るためのプロトコル(通信規約・共通の約束事)が存在するところだろう。言語があることで私たちはそれぞれの「環世界」を「情報」として外部化し、共有することが可能になるのである。

また、使う言語によって世界の認識の仕方が変わるとする「サピア=ウォーフ仮説」も(人は共通の言語構造を生まれながらに持つとするノーム・チョムスキーの「生成文法」との間で議論は続いているものの)「情報環世界」に通ずる重要な考え方だ。

第2章では、台湾、ベトナム、日本のDNAを持ちながら、フランスに生まれ育ち、アメリカで教育を受けるという、多様な言語的・文化的バックグランドを持つドミニク・チェンさんならではの感覚と視点で、言語や文化の違いによる「情報環世界」の「写し方」「移し方」「映し方」が語られていく。

「対話」と「共話」

ドミニクさんによれば、例えば英語と日本語では会話の話法が特徴的に異なるという。会話においても主語・述語などの文章構造が明確な英語に対して、日本語の会話では、主語が抜け落ちていたり、途中でフレーズを投げ出したりと文章構造が曖昧なまま、お互いに相手の話を途中でテイクオーバーして、そこに自分の発話を重ねることで一つの文章が紡がれていくような場面がより多く見受けられる。A「今日の天気さぁ…」B「あぁ、ほんとに気持ちいいねぇ」といった具合だ。話し手と聞き手が明確にターンテイクしながら展開される「対話(dialogue)」に対して、主体と客体、話し手と聞き手を曖昧にしながら展開されるこの「共話(synlogue)」こそが、「情報環世界」をうつし合う一つの鍵になるのではないかとドミニクさんは言う。

インターネットをはじめとする情報テクノロジーを駆使しながら、「フィルターバブル」をぶつけ合うのでも弾き飛ばすのでもなく、それぞれの「情報環世界」をうつし合うような「共話」的な場をつくりあげていくことは出来るだろうか、ドミニクさんの思索と実践は続く。

謎床(なぞどこ)

ところで、そんなドミニク・チェンさんと、古今東西の本を読み解く「千夜千冊」で知られる知の巨人松岡正剛さんによる共著『謎床(なぞどこ)』は、お二人の多様な視点とこれまでの膨大な知の蓄積がお互いに響き合ってとめどなく紡がれる「共話」そのものである。折に触れて本棚から取り出しては、その度に読み手である自分のその時々の問題意識も相まって新たな気づきや問いが立ち現れる、まさにぬか床のような一冊だ。

ちなみにぬか床と言えば、ドミニクさんは同じく「情報環世界研究会」のメンバーでもあり、発酵をテーマにした展覧会や著書でも話題の小倉ヒラクさんとともに、Nukabotなる作品をミラノサローネで展示中とのこと。こちらも興味津々だが、発酵についてはまた次の機会まで寝かせておくことにしよう。


【追記】初めての単著『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』がBNNから2021年5月21日に発売されました。行き過ぎた現代のテクノロジーは、いかにして再び「ちょうどいい道具」になれるのか——人間と自然とテクノロジーについて書いた本です。[第5章 人間と人間]ではこの記事にも触れています。



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