見出し画像

トレンドは川崎なのか?

派遣法が一変させた都市・川崎 

 マイナビニュースに寄稿した”連載 あの駅には何がある?登戸駅後編”では、登戸駅周辺に存在する多摩川生田緑地などを紹介した。前編では、日本を震撼させたカリタス小学校の事件に触れながら登戸駅界隈を解説した。今回は、多摩区がピクニックタウンを称する部分にスポットライトを当てている。

 川崎市といえば、一昔前に日本の工業を担う京浜工業地帯があるために工場街というイメージが強くあった。高度経済成長期は、地方から金の卵が大挙して東京へとやって来たが、それらの金の卵たちのなかには東京ではなく、川崎に漂流した者たちも少なくない。

 高度経済成長に乗って成長した川崎は、その後も順調に工業都市としての趣を強くした。バブル期も川崎は、川崎らしく工業化一直線に進んでいく。それはバブルが崩壊した後の平成前期でも変わらなかった。

 川崎に変化が訪れるのは、2000年代に入ってからだ。2004年に改正労働者派遣法が施行。製造業で派遣労働者を雇用することが可能になり、企業は雇用の調整弁として派遣労働者をフル活用するようになる。それまで、派遣労働者は一種のプロフェッショナルという認識がされたいた。

 例えば、同時通訳者という特別な職は常に仕事があるわけではない。こうした特殊技能の持ち主を常時雇用することは難しい。だから、そうした特別な技能を有する労働者に限って派遣でも認めましょう――というものだった。だから、派遣労働=プロだったのだ。

 製造業に派遣が解禁されたことで、派遣=安価な労働力という認識が広まっていく。2007年に放送された『ハケンの品格』は、派遣社員が主人公であり、その主人公は派遣社員として誇りを持った人生観を貫いている。まだ、派遣社員がプロフェッショナルという意識が残っていた時代を思わせる。

 しかし、派遣社員は企業の都合のいいように運用された。製造業で解禁されると、単に安い労働力化していく。また、以前から危惧されていた雇用の調整弁という機能に関しても、十二分に威力を発揮した。

 派遣社員はプロではなく、非正規雇用という言葉が適合するようになり、実際に非正規雇用の方が実態に即したワークスタイルになった。同時通訳をはじめとする特殊な技能を要する職も、それらと一緒くたに非正規に分類されて、その特別感は薄らいでいった。

 もちろん、時代の流れとともに同時通訳という職能が特別なスキルではなくなったという事情もあるだろう。また、本来なら人間でしかなし得なかった通訳という仕事が、IT化によってハードルが下がったことも一因としてある。

 それでも、改正労働者派遣法がプロという職域を破壊した最大の要因だったことは間違いない。同時通訳だけではなく、カメラマンやピアニストといった特殊技能の持ち主を改正労働者派遣法どんどん駆逐した。

 また、バブル崩壊から立ち直れない日本経済でも、そんな付加価値のある高単価人材を必要としなくなってもいた。安くモノをつくり、安く売る。いわば、「安かろう悪かろう」が蔓延し、それが日本経済の成長を止め、デフレを招いた。

 そして、とどめが企業の海外進出だった。特に、製造業の工場が海外に積極的に移転した。東アジア・東南アジア諸国が発展し、中国を先頭に新興国の存在感が大きくなってきた。国内の製造業は工場を労働力の安い、海外に求めた。

 土地の狭い日本では大規模な工場を開設するのも一苦労だが、海外なら違う。日本の十数倍の敷地でも安値で取得でき、工場で働く人員もたくさん集まる。労働力も安いから、日本人の給料で現地なら5~6人は雇える。企業にとっていいことづくめだった。

 こうした潮流から、川崎市の工場は次々に消えていった。高度経済成長期に建てられた工場が更新期にあたっており、ちょうどいいタイミングだったという事情を抱えてい企業や工場もある。

 川崎駅前、そして武蔵小杉駅前にあった巨大な工場は移転し、駅前にはぽっかりと空き地が生まれた。ここに再び工場を建設することも可能だっただろうが、やはり海外で工場をつくった方が得という損得勘定から、ここに工場が再び姿を現すことはなかった。跡地につくられたのは、大規模複合商業施設だったり、タワーマンションだった。こうして、川崎市の人口は一気に増加の道をひた走ることになる。

成長の苦しみ 川崎市が味わった苦悩

 川崎駅や武蔵小杉駅を結び、東京の立川駅まで走る南武線は、もともと南武鉄道という私鉄で、立川駅で青梅鉄道(現・JR青梅線)から運搬されてくる石灰石などを臨海部の工場群へ運ぶ役割を果たした。つまり、南武鉄道に課せられた役割は貨物輸送が主であり、旅客は従の関係にあった。

 それは、国鉄JRに移管された後も変わらない。むしろ、JR直後の方が貨物優先色を強くしていると言っていいかもしれない。なぜなら、南武線で運行されていた快速列車が、JR化直前で廃止になったからだ。快速運転をしても、それほど急いでいる乗客はいない。だから、需要のない快速は廃止する――そういった判断が下されて、南武線の快速運転はいったん幕をおろす。

 しかし、2011年には再び快速運転が開始される。そこには南武線沿線の宅地化が進み、川崎都民が急増したことが背景にある。川崎都民は川崎駅・武蔵小杉駅だけではない。川崎駅や武蔵小杉駅は不動産価格が上昇し、その受け皿として登戸駅や溝ノ口駅に住民が増えていく。

 こうして、川崎市の人口はウナギのぼりに増えていった。人口が増えることは、地方自治体にとって喜ばしい話であるが、大幅な急増は手放しでは喜べない現象だ。

 なぜなら、人口が増えれば、それだけ生活インフラを整備しなければならなくなるからだ。上下水道や図書館・公民館、バス路線、駅前広場や駐輪場、子供のいる家庭なら保育所や学童、小中学校といった具合だ。実は、こうした人口急増によって、過去に川崎市は苦い経験をしている。

 80年代、人口が急増したために住民たちが日々排出するゴミが増加し、市の焼却能力を完全に上回った。限界に達した川崎市のごみ行政は、市民にごみ削減の意識を広めるために”非常事態宣言”を発令。ごみの分別の徹底することにより、リサイクルの推進を図った。行政は、ごみ削減に躍起になった。

 その削減を進める一方、川崎市内のごみ排出量は地域的な偏在が強かった。ごみ収集車の経路や焼却場の管轄を見直し、さらには貨物列車によるゴミの運搬という新手も繰り出す。貨物列車でごみを運ぶというアイデアは、「クリーンかわさき号」と呼ばれる貨物列車に結実。列車でごみを運ぶことにより、清掃車輸送で必要とされていた運転手やトラック台数の確保が容易になった。これも、川崎市のごみ問題解決の一助になっている。

 こうした試行錯誤によって、川崎市はクリーンなイメージを脱したわけだが、川崎駅・武蔵小杉駅のタワマン乱立は悪夢再びを心配させる出来事ともいえた。とはいえ、近年はごみの削減やリサイクル意識も強くなり、以前のように一人あたりのごみの排出量は減っている。また、焼却炉の処理能力も強化されて、ごみ行政には余裕が生まれている。

 むしろ、人口減少社会において若い世帯が増えることを歓迎するむきも強く、問題はそれを継続的な成長につなげられるのか?という点にある。川崎市内でタワマンが目立つのは、前述のように川崎駅前、そして武蔵小杉駅前だが、南武線の沿線でも住宅地が多く見られる。また、南武線より穴場な南武支線でも住宅造成が盛んになっている。

 一昔前なら、東京じゃなかったら横浜といった感じだったが、今ではその横浜を凌ぐ勢いを川崎は見せている。特に、南武線は目まぐるしく変化している。

多面的な顔を持つ川崎

 川崎駅前や武蔵小杉駅前はタワマンや大規模商業施設によって、大きく変貌した。今後はどんどんイメージも変わってくるだろう。それでも、旧来からの工場街、工業都市といった趣を残すのが川崎市の沿岸部だ。川崎の名称をそのまま区名にした川崎区は京浜工業地帯のど真ん中。川崎区内を走るのは、南武線尻手支線鶴見線、そして神奈川臨海鉄道といった、THE川崎といった印象を強くする鉄道路線だ。

 鶴見線や神奈川臨海鉄道の沿線は繰り返し訪問しているが、茫洋とした光景が街の変化を感じさせない。細かい部分は変わっているのだろうが、この沿線一帯は工場が立ち並び、大型のトラックが走り、たまに工場勤めと思しき作業服姿の人たちが自転車でのんびり走っている。レストランも見当たらなければコンビニもない。街灯も、住宅街に見られる照度ではない。どちらかと言えば、白熱灯的な色味を帯びている。ここ数十年間、そんな街のままでありつづけた。

 以前、工場夜景の踏切と称して「車あるんですけど…?」(テレビ東京系)という番組で神奈川臨海鉄道の踏切を訪れた。神奈川臨海鉄道の貨物列車はオンエア中に走ってこなかった。どうやら、中国地方の水害で、貨物のダイヤが乱れたことが原因だったようだ。そのとき、沿線にはまったく人の気配がなく、周囲はテレビの取材クルーのみ。そして、遠くに稼働している製鉄所の炎が見えるという情景だった。

 一方、すぐ近くの京急大師線川崎大師への参拝客が溢れるので、週末は行楽色で染まる。東京湾沿岸の工場街と川崎大師。対して、内陸部は多摩の自然が残る住宅街。同じ川崎市でも、ずいぶん異なった街が集合しているなぁと感じる。

 川崎市の内陸部は、東京湾沿いとは違った形で発展してきた。それは、新宿駅から延びる小田急線、渋谷駅から延びる東急田園都市線の影響が大きいことは否定できない。

 田園都市線の開業によって、川崎市内の沿線は一気にベッドタウン化した。沿線の宅地化により人口が増加し、当時は高津区だったエリアの一部が宮前区として分区した。宮前区は田園都市線の宮前平駅から借用されている。宮前区も多摩区同様に緑が多いことをウリにしており、そうした面からも宮前区が目指す方向性は登戸駅のある多摩区に近い。

 そして、多摩区という名称からもわかるように、川崎市北部は東京都の多摩と同じ多摩地区に属する。南部とは、明らかに文化も風土も違うのだ。

 そんな異なる文化の集合体が川崎の強さともいえるが、近年のタワマン乱立→ニューファミリー層流入によって、これまでとは一味違った川崎が生まれようとしている。新たに流入してきたのは、東京で言えば豊洲や二子玉川に近似した層になるだろうが、豊洲二子玉川が微妙に異なるように、武蔵小杉は武蔵小杉の独自の文化を形成し、川崎は川崎で独自の文化を築き始めている。

 そうなると、川崎市はどんどん多様化していくだろう。川崎市は北部と南部で大きく顔が異なるが、今後はさらに多様化していく可能性が高い。逆に多様化しすぎて一体感を得られない難しい自治体になってしまう可能性だってある。その舵取りを担う市長は、大変な苦労を要するに違いない。

東京か横浜か、それとも独自路線か その選択が川崎の運命を決める?

 川崎の発展は首都・東京の恩恵を受けてきた。その事実は否めない。ただ、開港地として発展してきた横浜も東京の恩恵を受けながらも発展してきた。そして、横浜の異国情緒溢れる文化は川崎にも影響を及ぼしている。tるまり、川崎は東京のベッドタウンではあり、受け皿的な部分もあったが、完全に東京依存でここまで進んできたわけではない。むしろ、東京が川崎に依存してきた部分がないわけでもない。

 実際、川崎に群立する石油・ガスタンクは、大田区や品川区の後背地としての役割を果たしている。近年では貿易港としての地位も向上。さらに、エネルギー政策の面からも川崎は首都圏を支える一大都市でもある。

 タワマンによって変貌した川崎は、東京と横浜に挟まれ、時代や社会情勢によって向きを変えてきた。タワマンによる川崎都民の増加は、現在の風向きが東京へと流れていることを示す一例だが、新都心を築くことで、新たな川崎像が創出される可能性も秘めている。

 とはいえ、川崎市の直面している課題は、何と言っても川崎都民が急増したことによる武蔵小杉駅の朝ラッシュ時における混雑だ。たびたび入場規制がかかる武蔵小杉駅の混雑緩和は行政課題でもあるが、それらを分散するためにも武蔵小杉駅に新都心としての核をつくらなければならない。

 同時に、市の玄関口でもある川崎駅の拠点性を高めることも求められる。こうした川崎に核をつくることで、川崎都民を川崎市民へと変えていく。そうした東京への依存度を薄めることにも力を注がなければならない。川崎に課せられた課題は、山積みだ。

 川崎市は神戸市を抜いて国内第6位の都市へと成長した。神戸市を人口で抜いたという事実は、単に人口が増加したという事実にとどまらない。明治期以降、神戸は開港場として栄え、戦前期までは東京・横浜・名古屋・京都・大阪と並ぶ6大都市だった。

 東京市が消滅した後も、神戸市は国内の経済・産業を牽引した特別な都市でもある。そんな神戸を抜いた川崎市に求められるのは、単なる大都市というポジションにとどまらず、国内を代表する、そして国際的な視点を持った都市という風格になる。

 東京・横浜に挟まれた衛星都市というポジションから脱し、自律した川崎市。川崎が走る先は、そんな未来像を描いた都市が期待されているのだが…。その模索はこれからも続くだろう。


サポートしていただいた浄財は、記事の充実のために活用させていただきます。よろしくお願いいたします