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成田線と常磐線の間 我孫子「支線」の謎

関東の宝塚を目指した柏

 東洋経済オンラインに寄稿した”「千葉の渋谷」柏はかつて「宝塚」になりたかった”では、常磐線沿線のなかでも要衝になっている柏駅の興亡盛衰を描いた。

 東京―千葉―茨城を貫く常磐線の沿線には、東京に近い順から松戸駅・柏駅・我孫子駅とそれなりの主要駅が並ぶ。それら3駅は、それぞれ松戸市・柏市・我孫子市の玄関駅になっていて、市の人口も東京との距離に準ずる。

 ところが駅の利用者数を見ると、人口の多い松戸駅よりも柏駅の方が多い。それだけ、柏駅の拠点性や存在感が大きいことを伺わせる。

 東洋経済オンラインでは、以前にも”ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史”とのタイトルで我孫子駅を取り上げた。

 我孫子は江戸時代から小さいながらも水戸街道の宿場町として栄えた。そして鉄道が開業してからも、引き続き発展していく。

 我孫子駅の南側には手賀沼と呼ばれる大きな湖沼があり、明治半ばから手賀沼を中心に我孫子は別荘地としてにぎわった。

 一方、柏駅の周辺は牧草地が広がり、荒涼とした農地でしかなかった。これを大きく変えたのが、しょうゆの醸造で財を成した吉田家だった。当主・吉田甚左衛門は、柏を「関東の宝塚」にするべく、私財を投じて柏開発に傾注する。こうして、柏のレジャータウン化計画は動き出した。

 宝塚は劇場を中心にして、レジャー施設を配置した。それに倣い、柏では競馬場を誘致。競馬場を核に、レジャー施設の充実を図ろうとした。

 競馬場を見渡せるようにゴルフ場が開設される。競馬を見られるゴルフ場というコンセプトもあって、ゴルフ場の配置計画は窮屈なデザインになってしまった。しかし、競馬場もゴルフ場も宝塚計画の一部分にしか過ぎない。吉田甚左衛門は、窮屈なデザインになったことを気にしなかった。

柏と我孫子 常磐線の要衝

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