【連載第6回 みんなの公園】身分意識を希薄化させた公園の威力

明治新政府の大改革

 1873年、太政官布達によって東京に誕生した公園は、全国へと波及していく。明治新政府の国づくりは、封建体制だった江戸幕府の時代とは大きく社会を変容させる。その変容にあたり重要になったのが、それまでの社会が醸成してきた常識、いわば当たり前とされてきた社会通念だ。

 明治政府が掲げた2大国家目標は「富国強兵」と「殖産興業」だが、これらを実現するためには、そのほかにも取り組まなければならない意識改革が必要だった。

 その意識改革のうち、大きな柱になっていたのが「文明開化」と「四民平等」の2つだ。文明開化は、要するに生活スタイルの西洋化を意味する。チョンマゲをやめ、和服を洋服に改める。食事も栄養バランスのよい肉や牛乳が推奨された。時間感覚も太陽暦の採用で、少しずつ変えられていく。

 文明開化は都市の骨格も大きく変えた。家屋は防火を意識した石造り・レンガ造りへとシフト。道路についても、これまでは人がすれ違える幅があれば十分だったものが、馬車や電車が通行できるように拡幅される。

 四民平等は、固定化されていた職業による階層を撤廃を促進させた。武士・農民・職人・商人などの壁をなくし、職業選択の自由を緩和。五爵という華族制度は残り、そこには限界もあった。それでも、武士が要望していた士爵という身分は創設されず、帯刀という特権も廃された。

 明治新政府が職業選択の自由を緩和した背景は、自分たちが農民とそれほど差のない下級武士の出身だったからという理由もある。それ以上に、失業した士族たちの救済という意味を内包していた。旧士族を失業させたために各地で旧士族による叛乱が相次ぎ、安くない代償を払う。それでも富国強兵というスローガンを守り、軍隊の近代化を推し進めるには必要な措置でもあった。

 それまでの武士は、ある程度は身分が保障されていた。しかし、軍隊の近代化を図るには、半ば世襲化した士族を起用するわけにはいかない。徴兵制で兵を募り、訓練を施し、出自に関係なく才能ある人材を将官として採用する。それが、西洋列強に伍するための近代的な軍隊づくりだった。

 とはいえ、それは建前に過ぎない。明治新政府が発足したばかりの頃は、薩長閥が幅をきかせた。特に山県有朋は陸軍のリーダーとして強大な影響力を有した。山県は長州藩出身だったため、陸軍では長州藩出身者が優遇される傾向が強かったとされる。

 それでも、四民平等というスローガンは長らく固定化されていた身分階層を一気に溶解する働きを担った。しかし、頭の中では四民平等を理解していても、人間は急に考え方を変えられない。旧士族にとって、いきなり農民や町民と分け隔てなく接することには抵抗があっただろう。

消防組織から見える身分階層

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