【舞台】『スリルミー』――松岡広大さん演じる「私」の痛ましさについて

※松岡さんの演技のここが好き、という話を一生するだけの記事。
※以前ツイートしたものをベースとして文章化したもの。

 ――何を知りたい?
 倫理審査委員会から真の動機を訊ねられた時、俯いていた「私」はゆったりと顔を上げる。黒く蟠っていた闇の中から徐々に「私」の顔が仄明るく浮かび上がり、観客はそこで初めて「私」という男の顔を目にする。
 「何を知りたい?」 そう訊ね返すとき、松岡さん演じる「私」は薄っすらとした不安、微かな警戒心、そして苦い痛みを滲ませる。自分の最も触れられたくない聖域へ土足で踏み込まれたように、あるいは何かを大切なものを隠していた薄氷を割られてしまったかのように。
 こうして松岡私の『スリルミー』は幕を開ける。

 松岡さん演じる「私」は、感情の襞が繊細でガラス細工のような印象を与える。悲しいほどに真っ直ぐに「彼」を見つめては裏切られ、傷ついていく。「彼」を求めずにはいられない一方で冷静に現状を理解できてしまうから正しく傷ついてしまう。期待を裏切られては傷つくなんて分かりすぎるほど分かってる、でも「彼」への想いを抑えきれない、理知的であるが故に心が磨耗していくような「私」。
 例えば、2人で放火した倉庫を眺めるシーン。山崎彼に「昔のレイのままだな」と言われた時、松岡私は一瞬すごく嬉しそうな顔をするのだけども(配信ではなし、9/26・29上演時の演技)、続けて彼に「幼いままだ」と言われて、不満そうな顔をする。このあまりにも儚い喜びようは、どうにも切ない。再会して以降冷たい「彼」の心のなかに自分という人間がいるという事実に微かにでも触れられて喜んでいるようでもあるし、(おそらくその頃は仲睦まじかったであろう)過去に戻れたような喜びでもあったかもしれない。いずれにせよ、こんな単純な言及にさえ笑みを浮かべてしまうほど、「私」の「彼」への思いはまだ明るく透きとおっている。
それ故か、この後、倉庫が赤々と燃え上がるとき、山崎彼はそれを恍惚と見つめるが、松岡私はその山崎彼の背を見つめるようにして階段を下りていく(9/26・29上演時の演技はそうだったはず、配信では炎を見つめる演技)。こんな時でさえ「私」は「彼」を求めているのに視線は絶対に交わらない。「私」の気持ちが宙づりにされる様はひどく息苦しい。
(あとここは「彼」に「もっとだ」と言われてガソリンを撒いた後「さあ、へへっ…」ちょっと悪戯っぽく笑うのが最高に可愛い。何だかんだ言いつつ悪戯好きなんだろう)

 殺人以前/以後で、「私」の様子が対照的になるのも、また松岡私の性格を示している。
 殺人以前はかなり率直に感情を露わにし、表情も豊か。こういう役作りは、いかにも親に大事にされて育ったお坊ちゃまらしさがある。「私」は「彼」と異なって親に大事にされて育っており(そして家族を殺すということに強い倫理的抵抗を感じるほどには家族関係は良好)、きちんと自分の話を聞いてもらえ、感情を大事にしてもらえる環境に育ったからこそ、何でも素直に発露してしまうのだろう、という説得力がある(ここはそもそも「私」というキャラがそういう風に造形されているのだけども)。
 だが、松岡さんの「私」の場合、殺人以降はいきなり表情も声の抑揚も失われ、前半の素直で表情豊かという振る舞いがこの落差を際立たせる。殺人後の第一声「世の中騒ぎ出す やってしまった僕たちは」は、他の「私」は殺人の動揺を表すように歌うが、松岡さんは非常に控えめ。この後も、時折動揺(している風の「私」の演技)を混ぜてはくるが、基本的にはあまり感情の昂ぶりを見せない。
 ここまで「私」は殺人に強い抵抗を感じつつも「彼」に抗えず共犯者になってしまった、という流れになっているので、初見者には「動揺した時には慌てふためくのではなく、心も顔も凍りついてしまうタイプ」に見えるし(そして「彼」の目にもそのように映ったはずだ、何故なら「私」の挙動は「彼」に一切の不信感を抱かせなかったのだから)、一方二度目以降の鑑賞者には「計画を粛々と遂行している理知的な振る舞い」に見える。
 特に電話でのやりとり「僕の眼鏡/おとなしくしろ」での松岡さんの演技は細かい。
➀「彼」にかける前に電話を胸に抱き、覚悟を決めるように一呼吸。
➁電話中、目を泳がせ、「これで動揺してる感じ出てるかな?」のような不安を感じつつ芝居の台本を読み上げるかのように話す。
➂所々で声を荒げるも、顔は冷静なまま。
➃声を荒げる部分は「これが落ち着いてられるか」「あの子のことが背中の痣で分かったんだって、何故消さなかったんだ!」「(眼鏡を落としたのは)間違いなくあの日の夜だ(眼鏡についてはこの後も唸って一度動揺してみせる)」「恐れていた通りだ、やっぱり!」「(眼鏡以外にも現場に)血がついた何かがあったら」など、そこは絶対に動揺するよねという要所を抑えている(でも顔はやはりほとんど冷静)。
 「彼を騙すための演技をしている」演技が非常に細かく、松岡さん演じる「私」の大きな見所だろう(生で観ていて気がついた時にはあまりの役作りの良さにぞくぞくした)。
 松岡さんの「私」は、あまり取り乱さない。どこか躊躇いを覚えつつも粛々と計画を遂行する人間であり、松岡さんの「私」を形容する言葉は「正気」や「理知的」といったものが相応しい。
それ故、彼と出会いさえしなければきちんと優秀な法曹か鳥類研究者にでもなっていたんだろうという真面目さを感じさせ、バードウォッチング中にすぐメモをとるような勤勉さであの99年の鳥籠という狂気のような計画を取り組んだような印象を与える。狂気の道を独り正気でゆったりと歩んでいった、そういう悲哀が松岡さんの「私」にはある。そして、そうやって歩みきれてしまったところに松岡私の悲劇があったのだろう。

松岡私は「彼」と話している時、時折唇を引き結ぶような仕草をする。それは微かな躊躇いであったり、何かを言い淀んだり、あるいは「彼」の反応次第で何かを取り繕おうとしてみたり。そんな時に、松岡私は唇を引き結ぶ。
この細かな仕草はあたかも「私」が「こう言ったら(あるいは自分がいま発したばかりの言葉を)彼はどんな風に思うだろう」と考えているように見える。松岡私は自分の言いたいことを言うのではなく、常に「彼」と距離を冷静に探りながら自分の発話を、振る舞いを決定している。言い換えれば、それは「彼」が自分のことをどう思っているのか、正面から受け止めつづけることに他ならない。松岡私が理知的に見えるとすれば、その理由のひとつは恐らくここにあるのだろう。けれども、それは素手でナイフを受け止めるようなもので、だからこそ真っ当に傷ついてしまう。
もしかしたら、これほど「彼」のことを見つめて(そして自分が「彼」からどう見られているのかということを知って)いるからこそ、先述したように要所だけ抑えてこんな風に演技をすれば騙しおおせる、と思っていたかもしれない。けれども、それは疑われないこと、すなわち「彼」がさして「私」のことなど見ていない、という事実と表裏一体であり、計画の成功は果たして「私」にとって幸せであったのか、という疑問さえ浮かんでくる。
「待てよ!」と「彼」を呼び止めた時も、二人の間には長い沈黙が横たわるが、その時「私」は「彼」からの応答を待つような表情を浮かべている。つまり、何か言ってくれるのではないかという一抹の期待がまだ松岡私の心には燻っている。けれども、だからこそ裏切られたことの痛みがあまりも重く、「どうしてそんなことが言えるの?」と問わずにはいられない。ここでの松岡さんの演技は非常に控えめだが、内面から滲み出るようで「私」の傷つきが息苦しいほどに伝わってくる。
そして、「九十九年」。「俺はああいう弁護士になりたかったんだ」と言う「彼」に「……そうだったの?」と返す時の松岡私、彼の将来、夢を初めて知り、同時にそれをへし折ってしまったことに動揺し、傷ついているかのようだった。その後の「俺のこと見直したか? 怖くなったか?」も恐々と「彼」の様子を窺うかのように訊ねており、「彼」を騙すこと、自分たちの力関係を逆転させようとすること自体が、「私」にとっては果敢な挑戦であり、タブーを侵犯してしまったかのような印象をもたらす。まるで好きな「彼」を騙す、そして結果として傷つけてしまう、それこそが松岡私の「禁じられた森」であったかのように。
 99年一緒にいられると語る時も酷く冷静であり、その時の長さと残酷さを知っているよう。「彼」が「全て君の思うがまま」と言う時は居心地悪そうな相槌を打ち、「だが君は孤独だひとり」と言われた時には意を決したように「いや、離れられない」と返す。たとえ99年の終身刑で彼を閉じ込めたとしてもそれは本当に物理的に閉じ込めただけで心までに手に入るなんて幻想は一切抱いていない、けれどもそれは「彼」を手に入れられないことと決して同義ではない、何故なら体は閉じ込めたのだから――現状に対する冷徹なまでの認知と執着とがせめぎ合い、そうした感情に松岡私の「九十九年」は貫かれている。
 だからこそ、最後「永遠に」と歌う表情はどこか泣きそうなのだろう、と思う。たとえ、「彼」の体自体は隣に在っても、もう「彼」の心は遠くへ飛び去ってしまった。
 それこそ、永遠に。

 松岡さん演じる「私」はどこまでも切ない。冷たく突き放されても離れることが出来ずに、期待しては裏切られ、「彼」の気持ちを窺おうとしてはナイフで鋭く切りつけられてしまう。摩耗して摩耗して、その傷つきの果てに禁じられた森へと迷い込む。
 繊細な演技を丁寧に積み重ねることで、松岡さんの「私」は、「私」という人間が負わざるをえなかった傷の奥底へと観客を導いていく。
 松岡さんの演技は、いい意味で演技らしくなかったと言えるかもしれない。あえて表情を賑やかにしている場面もあるけれども、傷つきの場面では顔から表情はほとんど失われ、その代わり「私」の心の痛みが静かに滲み出す。その静謐さが、却って痛みの重苦しさを観客に告げ知らせ、内側から感情の滲むような佇まいは、痛ましくも美しささえ感じられた。
 松岡私の『スリルミー』は、他の2ペアに比べ、どこか大人しく控えめで、静かだ。けれども、その静謐さこそが美しく、痛ましい。そのような「私」であり、またそのような『スリルミー』であった。



以下はツイッター投稿時のログ。
※ツイートを跨ぐ文章のみ接続。基本、投稿順。
▼9/26 19:30~ D列センター
・スリルミー、今日は前方席で観たのだけども、「私」の表情を詳細に追えると舞台の印象がものすごく変わる。どうしようもないほど切ないラブロマンスだった。松岡「私」は悲しいほどに真っ直ぐに「彼」を見つめては裏切られ、傷ついていく。感情の襞があまりにも繊細で、ガラス細工のような印象。
・スリルミー。松岡私は理知的ではあるものの感情の襞は繊細で、彼を求めずにはいられない一方で冷静に現状を理解できてしまうから正しく傷ついてしまう。期待を裏切られては傷つくなんて分かりすぎるほど分かってる、でも彼への想いを抑えきれない、理知的であるが故に心が磨耗していくような私だった
・ 2人で放火した倉庫を眺めるシーン。彼に「昔のレイのままだな」と言われた時、松岡私が一瞬すごく嬉しそうな顔をするのだけども、続けて彼に「幼いままだ」と言われて、不満そうな顔をするのがとても良かった。その後も期待→裏切られ傷つくを常に往還し、まさに「ひとり波間に揺れる小舟」のよう。
・スリルミー。犯罪が露見した時の電話のやり取りで、松岡私が語気は荒いのに表情は全くクールなままで、電話では顔が見えないから彼を騙すために声だけで演技してるんだろうな感が凄かった(彼と対面の時は表情があったので尚更)。
・ スリルミー(松岡×山崎ペア、9/26)。カテコ、山崎さんが舞台に上がる際にドン!と音をたててしまい、客が笑うと2人ともはにかみ、松岡さんはお詫びのジェスチャー。ハケる際、山崎さんがセットに頭をぶつけてまた笑いが起き、再び姿を現した時にも山崎さんはにかみ、松岡さんはお茶目に詫びを繰り返す。あまりスマートではない振る舞いを繰り返す山崎さんと、それにはにかみながらフォローを入れる松岡さんという図がすごく和やかで、かつて「私」と「彼」が上手くいっていた時代があったとしたらこんな風に穏やかに笑い合う時があったのかな、と切なく、愛おしい気持ちになるカテコだった。

▼9/29 14:30~ F列下手
・スリルミー9/29松岡山崎ペア。護送車の中、「俺はああいう弁護士になりたかったんだ」と言う彼に「……そうだったの?」と返す時の松岡私、彼の将来、夢を初めて知り、同時にそれをへし折ってしまったことに動揺し、傷ついている様子だった。その後の「怖くなった? 見直した?」の時も、本当に怖々と訊ねてる、という様子で、99年の終身刑は私の一世一代の演技であり大博打であり、松岡私は本当に徹頭徹尾正気かつ理性的に全てを遂行したのだろうという印象。99年一緒にいられる的なことを言う時も酷く冷静で、その時の長さと残酷さを知っている顔だったし、彼に「俺を閉じ込めてもお前に待つのは孤独だ」的なことを言われた時も、彼の指摘を正しく理解し受け止める顔をしていて、たとえ99年の終身刑で彼を閉じ込めたとしても、それは本当に物理的に閉じ込めただけで、心までに手に入るなんて幻想は一切抱いていない。どこまでも理性的である松岡私の在り方は観る者のこそが傷ついてしまう。
・ 松岡私の理性、冷静さが観客を傷つけるというのは、人の命を奪うという超えてはならない一線を超えたのに結局手に入ったのは「彼とのゲームに勝った」という事実だけであって、その虚しさと自分達の行為が倫理的に許されることでない、という重みとをこの人は正しく噛み締めていくことを予感させるから。
・けれども、観客がこのように傷つけられることはこの芝居の在り方として真っ当なんだろうと思う。実際に人が死んでいるわけだからこの芝居も元の事件も決して美化されたり娯楽化されたりしてはならない。私と彼の行為の虚しさ、愚かさ、その犯した罪の重みに観客も正しく耐えるべきという気がする。
・ 松岡私の「スリルミー」、彼を引っつかんで顔を覗きこむ時の「もう逃さない」の言い方と眼差しが、獲物を確実を仕留めようとする狩人のような鋭さがあって、松岡山崎ペアだと関係の主導権を握っているのは実は私の方なんだろうな、と思わせられる 私から彼に主導権を握らせてあげてるところがある感
・松岡私の「抱きしめてほしい」 も、恨みがましくも挑みかかるような言い方で自分の要求に相手が乗るかそるか、試すような感じ 「99年」でも「俺のことを見直したか?怖くなったか?」の時は怖々と訊いていて、松岡私は彼の反応をちゃんとキャッチしようとする人 でもだからこそ真っ当に傷ついていく
・ 理知的な松岡私、彼と出会いさえしなければ優秀な法曹か鳥類研究者にでもなっていたんだろうという真面目さを感じるし、バードウォッチ中にすぐメモをとるような勤勉さであの99年の鳥籠という狂気のような計画を取り組んだ感があり、本当に狂気の道を正気で突き進んでいった人なんだよな
・スリルミー9/29松岡山崎ペアのカテコ。今日はカテコから引っ込む時に、「おつかれ」的な感じで互いの肩?背中?を叩き合っていた。作中時間以前の2人の関係性については何も語られないけど、カテコのゆるい感じのお二人を見てると私と彼の過去に思いを馳せてしまう。

▼11/2、5 配信の呻き
・スリルミー(松岡山崎ペア、配信)。松岡私も、山崎彼もそれぞれ内面に深い傷を抱え、私は辛いと思いつつも彼と離れることによって自分の傷口が更に広がりうる恐怖を、彼は親につけられた傷と向き合うしんどさを、現状維持することで避けようとしたらどんどん状況が悪化していく悲劇的な2人だった。
・松岡さんの演技が好きすぎて喋りたいことが3万文字ぐらいある あるけどもありすぎるのでまた後日
・ 尾上私は天然GPSで地の果てまでも「来ちゃった」と追いかけてきそうだけども、木村私は監視用のアカウント30個ぐらい持っててずっと相手のSNS動向を笑って見張ってる この中で1番弱いのは松岡私で、傷つくから彼のSNS見ないように自制してたけどある日見つけてしまい泣きながらも見るのをやめられない
・スリルミー。99年所感。木村私は彼を手に入れたので大満足結婚式、尾上私は彼と結ばれるには葬式しかないのでこれで結婚式に代えます(但し葬式なのでやはり複雑)派、松岡私は完全に彼の心が遠くに飛び去ってしまったことを知りその痛みに沈んでいく
・ やまこーペア配信を観直した。松岡私が切なすぎて毎回泣いてしまう
・松岡さんの演技、その丁寧さも、内面から滲み出るような感じも、役作りも好きすぎて数万字余裕で語れるけども、松岡さんの演技の魅力ってほんとに言語にできるタイプの魅力ではなくて、彼が舞台に立って「私」として100分生き抜くところをどうか優しく寄り添って観て………という感じ

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