【舞台】暗澹たる青春劇としての『スリル・ミー』――「彼」と「私」の若さと未成熟さをめぐって

 どうか、僕を恐れてほしい。
 タイトルともなっている「スリル・ミー」は、「私」から「彼」に向けられた狂おしく、切ない告白だ。作中幾度か口にされるこの言葉は、この舞台における「愛している」だと言ってもいい。だが、「愛している」という言葉が、思いが「僕を恐れてほしい」=「スリル・ミー」という形をとらざるえないところに「私」と「彼」の悲劇があり、その顛末を駆け抜けるようにして描くのがこの舞台の眼目である。

 ストーリーはいたってシンプルだ。
 舞台は、服役中の「私」が過去を語るところから幕を開ける。かつて19歳だった「私」は、幼馴染である「彼」のことを熱烈に愛している一方、恋人とも友人ともつかぬ関係の中で「彼」は「私」を冷淡にあしらい続ける。だが、「彼」は自分への「私」の思いを利用し、悪事に加担させる。そこで痺れをきらした「私」は、自分の望みを成就してもらったならば、相手の望みの成就にも付き合う義務があるとする双務的な契約を「彼」と結び、悪事に加担する代わりに、ハグや性行為などの身体的接触の望みを叶えてもらう。
 やがて、スリルを求める「彼」は放火や窃盗だけでは満足できなくなり、「私」を巻き込んで殺人に手を染めてしまう。その犯罪はすぐさま露見し、司法取引や裁判の末、二人は同じ監房で99年の終身刑となる。

 この舞台は徹頭徹尾、「私」から「彼」への愛に貫かれている。いや、「私」から「彼」への感情を“愛”と呼ぶのは綺麗すぎるかもしれない。何故なら、99年の終身刑こそは、ずっと「彼」に縋り支配されてきた「私」が、「彼」と自分の二人だけの世界に閉じこもるために用意した鳥籠であったからである。すなわち、殺人現場に眼鏡を落としてしまうようなへまなどは全て「私」の計算であり、殺人という超えてはならない一線を超えることで「私」は自らの“愛”を成就させたのだ。自分の望みを成就してもらったならば、相手の望みの成就にも付き合う義務があるとする双務的な契約は、ここにおいて、悪事⇔身体的接触というレベルを遥かに超えた地平で履行されることになる。

 この「私」の狂おしいまでの執着は、一体何なのか?
 『スリル・ミー』は1924年に起きた「レオポルドとローブ事件」を題材としている。ゲイカップルであったレオポルド(「私」に相当、事件当時19歳)、ローブ(「彼」に相当、事件当時18歳)があるユダヤ人青年を殺害した事件だ。実際の二人はともに裕福なユダヤ人であり、知能指数も高く、ニーチェの超人思想の信奉者であった。
 作詞・作曲・脚本を手がけたスティーブン・ドルギノフは過去公演のパンフレットにおいて、なぜレオポルドとローブが殺人という極限に至ってしまったのか、そのことを二人の親密性から捉え直したい、それがこのミュージカルの制作動機である、という旨のことを述べていた。つまり、ドルギノフは二人の情緒的な絆に、この若いゲイカップルが殺人へ駆り立てられた根源を見いだしている。

 ドルギノフがそのように捉えた『スリル・ミー』の要はきっと「若さ」と「未熟さ」なのだ。
 舞台を観ていると、「どうしてこんなことに」「どこかで後戻りできたんじゃないか」という歯がゆい思いがこみ上げる。『スリル・ミー』を演じる俳優はみな20~30代であり、舞台冒頭で「私」が「あれは私が19歳の時」と語ることを念頭に置き続けなければ、俳優の年齢に引っ張られ、「私」と「彼」は20代にも30代にも見えてくる。そこで、「私」と「彼」の選択は「人生経験を積み、理性的な判断が可能な成人男性によるもの」という性格を帯びてしまい、余計に焦慮や悔しさに見舞われるような気すらするのだ(作中では二人が学生であることをきちんと語られるが、学生としての生活はあまり描写されないので物語の背景としては遠退いていってしまう)。
 レオポルドとローブの行為は絶対に否定されなくてはならない。そもそも殺人というものが倫理的に絶対に許されるものでない以上、『スリル・ミー』における「私」と「彼」の殺人行為も許されるべきものはない。だが、それでもなお、「私」と「彼」に近づくために、私はあえてこう問うてみたいのだ。
――19歳ないし18歳の時、果たして私たちは自分の感情を理性的にあしらうことができたか? 誰かに感じている恋情を、あるいは劣等感を、その他の感情でもいい、倫理を全く踏み誤らない形で飼いならすことができていただろうか? 
 もちろん、この答えは千差万別だろう。『スリル・ミー』とはこれらが「できなかった」青年たちの物語なのである。「彼」の心の傷には「私」が染み入り、「私」はどんなに冷遇されようとも「彼」から目を離すことができなかった。

 「彼」はなぜ「私」が傍にいようとすることを許したのだろうか?
 「彼」から「私」への接し方は冷淡そのものである。「私」の強い好意を疎ましく思い、何かを求められる度に鬱陶しいという感情を露わにする。いくら「私」が追いかけてこようとも、本当に嫌ならばいくらでもかわす手段はあったはずだ。だが、「彼」は自分の望みを成就してもらったならば、相手の望みの成就にも付き合う義務があるとする双務的な契約を「私」と結んでしまう。「私」に犯罪の片棒を担いでもらい、見返りを与える、という形だが、そこには「私」は己を絶対に裏切らない、拒まないという信頼――もとい甘えが横たわっている。
 「彼」は養育者から愛されなかった子どもだ。
 裕福な家庭に育ち、飛び級するほどに知能も優れ、人気者として交流関係も豊かな人物として描かれる。一方で、「彼」の父親は「彼」には目もくれず、弟を溺愛し、「彼」は兄弟の間に序列をつける親の身勝手な愛情に傷ついている子どもでもあった。
 だからこそ、「彼」には、どんなに我儘に振る舞おうとも、どんなに冷たくあしらおうとも、崇拝にも似た変わらない愛情を向けてくれる「私」が必要だったのだ。作中、「君はなんて冷たいんだ」と言う「私」に対し、「彼」が「冷たくされるのが好きなんだろう?」という趣旨の言葉を返すやりとりがあるが、それは決して「彼」の高度なサディズムなどではない。“どんなに傷つけてもお前は俺の側にいてくれるだろう”という甘えであり、試し行動なのだ。「彼」は放火や窃盗などの犯罪に「私」を巻き込んでいく。それは愚かな大衆を超越した「超人」である「彼」が、恐怖といった卑近な感情や日常的な倫理規範を克服する“偉業”のヴェールを纏わせられるが、結局は「私」の愛の無償性を確かめようとしているに過ぎない。

 「彼」はなぜ、自らを「超人」だと規定するようになったのだろうか?
 「彼」はニーチェの信奉者であった。「彼」が頻りに口にする「超人」とは、19世紀末に発表されたニーチェの著作『ツァラストゥラはかく語りき』に登場する概念である。『ツァラストゥラはかく語りき』は現代では哲学書に分類されるが、「ツァラストゥラ」なる登場人物が自らも「超人」になるための修行のようなものを続けながら、他者に向けて「超人とは何か」を語る様子を描くという、叙事詩のような形式をとっている。
 「超人とは何か」ということは様々な切り口から語られるが、その定義において最も重要なのは「畜群」と称される人々よりも上位の存在であり、現状に甘んじるのではなく、それを常に超克していこうとする態度=「力への意志」を持つ者である、ということだ。
 「畜群」と呼ばれる人々はこの「力への意志」を持たない、現状に甘んじる凡俗な存在であり、軽蔑すべき存在として見做されている。「力への意志」への称揚と「畜群」と呼ばれる二者はコインの裏表のように、あるいは馬車の車輪のように分かちがたく結びつき、「力への意志」の輝かしさは大衆を軽蔑することによって成立している。
 『ツァラストゥラはかく語りき』は「ツァラストゥラ」の冒険譚のようでもある。だが、その語り口は抽象的で、難解だ。「彼」は(「私」が史実通り19歳に設定されていることを踏まえれば)18歳で、このような本を読みこなしてしまう秀才である。『ツァラストゥラはかく語りき』を私はいま読んでいる最中なのだが、18歳でこれが読みこなせたならばもう同世代との会話や日常なんてつまらないだろう、というのが素朴な実感だ。飛び級するほどの頭脳を持つ若者が、この「超人」思想に染まらないでいる、ということの方が難しいのではないか、とさえ感じてしまう。
 それも、「彼」は父親との、つまり自分を最も愛してほしいと願っている相手との関係において傷ついている。愛されたい、という願いが叶えられない傷つきを、彼はごく一般的な人間を超越し、それ故に他者には理解されえない特別な存在=「超人」なのだと自己規定することで切り抜けようとしたのではなかったか。
 その点においても、「彼」には「私」が必要だったのだろう。「彼」の幼稚な万能感を、「彼」を信奉することで本物だと証し立ててくれる存在としての「私」が。そして、己を特別な存在だと立証し続けるための営みに付き合ってくれる存在がとしての「私」が。本当に超人であれば、そんなものは要らないはずであることに「彼」は気がつけなかった。「彼」の振る舞いは「超人ごっこ」でしかなく、それはせいぜい親の前で演じてお情けの拍手を貰うのが関の山のエチュードでしかない。

 つまり、「彼」は自らの傷に夢中すぎたのだ。あるいは、自分の傷を愛ですぎたのだ、と言ってもいいかもしれない。そして、それこそが「彼」から「私」に対する想像力を欠落させ、足元をすくわれるような結果になったのだろう。
 「彼」から「私」の愛はあくまでも無私のものでなければならない。でなければ、それは「彼」が父親から与えられなかった――それ故にどうしようもなく欲しい――愛情の代替にはなりえないからだ。だから、「私」の求めは鬱陶しがる一方で、底が抜けたように「私」を搾取し続けた。「彼」の目論見は途中までは成功していた。
 だが、「彼」はひとつ、大きな誤算があった。「私」には自我があるからこそ、「彼」の悪事に加担してまでも傍にいたい、というほどの愛情を「彼」に持ちうるのだ。そして、まさに残りの人生の全てを、監獄という鳥籠に閉じ込められる鳥になりたいと願うからこそ、「私」は殺人まで加担する。
 その意味において、『スリル・ミー』の結末は復讐的ですらある。ひたすらに無私の愛情を求められ、自我を無視された青年の、肥大化した恋情が臨界を迎える。それまで「彼」を絡めとることができなかった「私」の恋情は、今こそ監獄の冷たい壁として立ちはだかって「彼」を閉じ込める。
 愛されたい、という迷路を彷徨っていた傷ついた子どもは、それ故にいつの間にか檻へと誘いこまれてしまっていたのである。

 「私」はなぜ、これほどまでに「彼」を愛したのか?
 「彼」が冷淡に見えてその実「私」を手放すことができなかったことは、「彼」と父との関係にその理由を見いだすことができるだろう。では、「私」が「彼」に執着したのは?
 その答えに、明確な輪郭を与えることは難しいように思われる。
 劇中、「私」は「彼」に冷たくあしらわれ続ける。「彼」の悪事に加担した見返りとして性交渉を持つ場面があるが、「彼」は「早く終わらせよう」などと言っており、それが愛情に満ちたものだとは想像しがたい。その他の場面でも、「彼」の「私」に対する振る舞いはほとんど憎んですらいるようである(記憶が朧気なのだが、確か「彼」の嫌いなものが話題になった時に「私」が「僕のことだろ」と言うような場面があったような気がする。先述した通り、「彼」の感情はそうではないのだが、この場面の時点で少なくとも「私」はそのように感じるほど、「彼」には蔑ろにされている、と感じていたわけだ)。
 ここで考えてみてほしい。もし、あなたが「私」の友人なら、「彼」との交際を勧めるだろうか? もちろん、これも答えは千差万別だろう。好きだという以上は離れがたいものだとしてひっそり見守ったり、あるいはそんな彼氏やめなよと別れを勧めたり。
 この問題に正解はない。だが、「彼」から「私」への仕打ちを見ていると、どうして「彼」から離れないのか、どうして「彼」を好きでいられるのか、不思議に感じられるほどだ。「私」が99年の終身刑を鳥籠として夢想し始めたのはいつのタイミングかは分からない(劇の展開に素直に従えば、表題曲「スリル・ミー」から「彼」が殺人を言い出す間あたりだろうか。)。だが、そもそもそんなことを夢想する前に別れる、というのがわりと素朴な選択肢ではないだろうか。にもかかわらず、「彼」への恋情は衰えるところか激しさを増していく(その臨界点が終身刑であることは言うまでもない)。
 無論、これはその「素朴な選択肢」を選ぶことができなかった人間の話なのだ。だから、舞台で語られる物語たりうるのであり、「普通は」などという見方は野暮であり、またそれはあらゆる人間がそこにコミットすべきだという規範性を想定している点で暴力的ですらある。
 「私」はなぜ、あれほどまでに「彼」を愛したのか?
 無論、この問いに何かしらの答えを設定すること自体は可能だ。裕福な家庭に育ち、飛び級するほどに知能も優れ、人気者である「彼」。客観的に見ても、惹かれるには十分すぎる条件を備えている。「私」と「彼」は幼馴染であったというところに何かを見いだしてもいい。だが、どのような答えを選ぼうとも、それは暗闇のなかから恣意的に掬いだした、一本の糸に過ぎない。その糸を戻して、再び暗闇に手を入れれば今度は別の一本をとることになるだろう。
 そう、「私」は暗闇なのだ。我々がはっきりと知ることができるのは、「私」が「彼」を99年の終身刑を鳥籠として夢想するほどに愛していた、という一点だけなのである。つまり、“なぜ”愛していたのか、という問いは永遠に答えられないのであり、“どのように”愛していたのか、だけが、観客の眼前には横たわっている。だが、“なぜ”愛していたのか、そこが空白であるからこそ、「私」という人物は、「私」が「彼」に抱く愛情は底知れぬ深淵となり、“スリル”となったのだ。

 表題曲である「スリル・ミー」は劇の中盤で歌われる。自分は悪事に加担させるという形で利用しながらも、こちらの要求はのんでくれない「彼」に対し、しびれをきらした「私」が「僕を恐れて」と迫る曲だ。
 自分が愛するようには相手は自分を愛してくれていない、悔しい、自分を大切にしてほしい、自分を見てほしい。「私」が「彼」に求めているのは、好きな相手がいれば誰もが抱くような、素朴で普遍的な感情だ。だが、その「私」の感情は、「彼」が超人思想を信奉していること、すなわち自分の快さを「スリル」に求めていることで、その素直な吐露を制限されてしまう。「彼」の関心を引くには「スリル」でならなければならない。
 二人はそれぞれ別の動機で「スリル」へと突き進んでいく。その根底にあるのは「愛し、愛されたい」という感情でしかなかったはずだ。けれども、彼らはその言葉を素直に口にすることはできないし、相手の求めていることを読み取ることは互いにできなかった。というよりも、しなかった、と言う方が正しいかもしれない。
幼児的とも言える、だがそれ故に素朴な愛への願望が、それぞれの形で「スリル」の望む感情へと書き換えられてしまう。そこに「私」と「彼」の岐路があった。だが、そこから引き返すには、あるいは相手の手を放すには、「私」も「彼」も「自分が愛されること」に夢中すぎたのだ。そして、それは傷を抱えた、10代の若者に到底克服しうる欲望ではなかった。
 無論、これを役者の年齢にひきつけて20代、30代の男性の物語として眺めることにもひとつの魅力がある。だが、「私」と「彼」の親密性がなぜ「99年の終身刑」という、あまりにも極端な結末を迎えねばならなかったのか――そのことを考えるために、共に10代であった、という素朴なところへ立ち戻ってみることもまた重要なことのように思われるのである。

* * *

 ある日のカーテンコール、私は拍手をしながら戸惑っていた。
 一体、この舞台は何なのか、と。
 もちろん、舞台は素晴らしかった。けれども、だからこそ私の戸惑いはより強いものとなった。数年前は実際の殺人事件を題材にしていると知らず、いわば良質なBLとして観ていた。無知だからこそ、無邪気に消費が出来たのだ。
 だが、実際の殺人事件が下敷きとしてあることを知ってしまったいま、私は「私」と「彼」の物語をどのように受け止めればいいのか分からなくなってしまった。面白かった、楽しかった、良かった。舞台に贈られて然るべきこれらの賞賛は、この舞台を、この舞台が語ろうとしているものを、全て「消費される娯楽」へと押しやり、矮小化してしまうのではないか。それは舞台に拒絶されているようですらあった。この舞台を消費しようとするあらゆる言葉は容赦なく撥ねつけられてしまうような。
 
 どうか、僕を恐れてほしい。
 この言葉が持っている、底知れぬ響きに私はまだ慄き続けている。


【観劇記録】
・2021/5/29or30 (※配信、観劇したペアは失念)
・2023/9/13 16時(尾上×廣瀬ペア)


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