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Ogen/blik Vol.3 出品者インタビュー 第二回 : 丸山達也(前編)

音楽、映像、サウンドパフォーマンスによるコンサートシリーズ、    
 " Ogen/blik [blink of eye=瞬き] "のVol.3の出品者のインタビュー。
第二回インタビューは映像作家の丸山達也です。

(コンサートの詳細についてはこちらをごらんください。
特設ウェブサイト:https://ogenblik.cargocollective.com

丸山達也 プロフィール
1988年大阪生まれ福井育ち、東京都在住。
大阪芸術大学芸術学部映像学科卒業、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)修了。
映画美術を学んだのち、映像メディアの特性に着眼した、個人映画の制作を始める。インド滞在時に撮影した10本のテープと日本で撮影したテープを重ね合わせ、入れ子状態に構成した『INDIATAP10+1』など。
また映像インスタレーション・デバイス作品では、映像メディアと身体との結びつきをテーマに、その関係性を探る作品作りを行う『ANOTHERFACE (ICONTACT series)』など。近年はアール・ブリュットの記録や、舞台作品の映像演出を手掛け活動の幅を広げている。

(聞き手:牛島安希子)


ー丸山さんは映像作家として、どういう方向性の作品を作られているのかお話いただけますか。

個人映画を自身のフィールドと位置付けています。旅のダイアリーを入れ子状態につないだ日記映画や、アール・ブリュットのドキュメンタリー、舞台の映像演出などがあり、分野を分けることが難しいですが、自己認識としては個人映画です。その中でも、実写映像を扱い、カメラの写実性を取り入れた映像作品を作っています。

*『INDOTAPE 10+1(2011)』インドへの旅の記録の10本のテープと、渡航前に日本で撮影した1本のテープを入れ子構造で構成した映像作品。



ちなみに個人映画とは、
(*作家個人の撮影・編集によって制作された非商業的な映画を指し、日本国内では60年代末頃から多く使用された用語。「個人映画」という用語が使用される場合は、66年の草月アートセンターによる実験映画・アンダーグラウンド映画の紹介を経て制作された、個人が主体となる映画を指して使われる場合がほとんどであり、実質的には実験映画・アンダーグラウンド映画と呼ばれる映画の別称である。引用元:https://artscape.jp/artword/index.php/個人映画より)
とのことですね。個人映画という名前から、個人の主張を作品から感じ取れるものというイメージがあるのですが、丸山さんの作品はそういうものから一歩引いている感じがありますね。

”個人”という言葉にフォーカスするとそうですが、表現における作家と作品の関係は、作品の一側面だと認識しています。そして、個人の主張を表現する道具という点でカメラを捉えると、カメラは不思議な装置だと思います。通常、カメラマンがあるビジョンを持って世界にカメラを向けますが、ビジョン通りに記録されるとは限りません。様々なノイズを含んでいます。

ーノイズを肯定的に捉えて、それを排除せずに取り入れていくんですね。

ー映像を撮る対象の選択は何か基準と言うか興味を持つポイントなどありますか。 ドキュメンタリー作品を作るときとそうではない作品を作るとき、丸山さんの中で違いはありますか。

撮影対象についてですが、自分が撮影対象のどんなところに興味を持つかは、自分でもわかっていません。むしろ、自分が立っている混沌としたフィールドが目の前にあって、その世界を自分自身で理解するためにカメラを向けているという方が正確なのかもしれません。カメラメーカーが開発したルック(画作り)があるため、人間以外の眼で捉えられた世界という観点でお話をすることは難しいですが、撮影対象との距離感や時間の流れ方の違いを変えるだけで、少し違った視野を与えてくれます。マッサージするように、自分の身の回りのものや理解したいものにカメラを向け、そこで撮られたものに驚いてもう一度撮影にいく。みたいなことの繰り返しをしていると思います。自分が良いと思う映像は、映像自体にキメがあり、肉眼では捉えられなかったザワザワする情報が内包されたものだと思います。映像の背後にあるものは剥ぎ取られてわからなくなっていても、映像自体が何か伝えてくれるもの。それは、日常の眼差しとは少し離れたところにあると思っています。そのため、ドキュメンタリーであっても極端なクローズアップか引いた画を好んでいます。


ー考えるために書く、という言葉を最近twitterで複数回見かけました。理解するために撮る、制作するという考え方に共感します。世界と対峙する方法が映像制作ということですね。

大きなスケールで捉えればその通りです。ただ、それは些細なものかもしれません。私はアール・ブリュットのドキュメンタリーを何作か作っていますが、カメラを通してしか捉えられなかった、向き合っている人への思考があると思っています。粘土を捏ねるときの土の感触や、ひたすらキャンバスの中に升目を作り埋めていく反復作業など、カメラを向けているといつのまにか共鳴していく感覚が得られるときがあります。それは世界を正しく理解することからは離れていると思いますが、少なくとも自分の理解を知ることが出来ます。


ー大学時代にどんなことを学びましたか?何か影響を受けた作品はありますか?

ドキュメンタリー監督の原一男氏が1年生の映像基礎を担当しており、講義の中で観た映画『海と毒薬』(87/日)に影響を受け、映画美術監督を志します。

『海と毒薬』
太平洋戦争末期に実際に起こった米軍捕虜に対する生体解剖事件を描いた遠藤周作の同名小説を、社会派・熊井啓監督が映画化した問題作。
出典:allciname http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=149932

扱っている題材もそうですが、当時映画に一番衝撃を受けたのは映画の美術セットでした。映画美術監督・木村威夫氏は、映画界のシュールレアリストと呼ばれ、ドイツ表現主義の映画を彷彿させられるような、登場人物の心理状況を反映し誇張されたセットデザインを生み出します。『海と毒薬』の中では、主人公が生体解剖の取り調べを受ける尋問室の檻が、映画終盤に海に浮かべられる象徴的なシーンがあります。ドキュメンタリーのような硬質なタッチで積み重ねてきたリアリズムを、シュールレアリズムの世界に昇華させる美術表現に関心を持つようになりました。

映画美術を学ぶ中で、自主映画の美術でロケセットの手法を知ります。自主映画のほとんどは予算がなく、限られた範囲でしかセットを組むことが出来ません。そこで採用される手法の一つがロケセットで、それは、ロケ地を探しそこにあるものを差し引きして映画の舞台に仕立てるというものです。美術監督の木村威夫氏もこの手法の名手であり、例えば先ほどお話ししました、海に檻を浮かべるというものもそうですし、田んぼの真ん中にベンチと時刻表をセットしてバスの待合室にするといったものがあります。限られた予算の中で効果的な画を生み出すための知恵ではありますが「現実にある景色を借りてきて、そこに少しだけ手を加えて虚構空間を作り出す」ということに、面白みを感じていました。この考え方は、映画美術に限らず、その後の制作の様々な場面で取り入れられるようになりました。


ー映画での美術セットの手法や、借景の面白さを生かす感覚などは、丸山さんがパフォーマンス作品を制作されたり、後にお話する音楽家とのコラボレーションの中でも生かされていますよね。
そこからIAMASを選択したお話もお伺いできますか。

映画美術と並行して、ドキュメンタリーや日記映画・インスタレーションなど個人をベースにも制作ができる方法をいくつか試していきました。映画の集団で一つのものを生み出していく面白さは感じていましたが、個人で遊ぶように実験を重ねたいと思っていたからです。書籍やワークショップなどから、ビデオアートを知り映画とは違った流れを関心が移ります。映画制作では、スクリーンの中に完結した映像を如何に作れるかということを考えてきましたが、アートとしての映像はそこに留まらず、映像を見る状況や関係性など、映画にはない広がり方を感じました。大学では、アートも含めた映像のあり方について学ぶことができなかったため、IAMASへ進学します。IAMASは、美術と映画の領域を横断しながら作家活動をしていた前田真二郎氏の存在があったためです。IAMASでの制作・研究は、映像の内容よりも、映像と人がどんな形で関係を持つかということに関心で向き合っていました。例えば、『ICONTACT』では、マルチチャンネルの映像インスタレーションで、各チャンネルに映った顔を通して体験者同士が不確かなコミュニケーションを体験を作品としています。また、『ANOTHER FACE』では、映像に映る肖像をみる鑑賞者の眼差しが記録され繋がれていくことを通して、観客に映像との関わりを問うような体験を作品としています。ほとんどの作品が、映し出される映像を作ること自体には介入せず、状況やシステムを構成するような制作でした。体験の構造自体が作品の核になっていることは、その後作られる作品に受け継がれていきます。

   『ANOTHER FACE(2012)』


ー丸山達也インタビュー、後編に続きます!

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