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『広すぎた檻』を終えて

『広すぎた檻』を終えまして、noteに書いてまとめておきたいな。と思ったことが二つあります
一つ目は、『広すぎた檻』と言う戯曲について
二つ目は、今回のカンパニーについて

それぞれ、演出家として、劇作家として

『広すぎた檻』と言う戯曲について

そもそも『広すぎた檻』と言う戯曲は”ギンガクのビンヅメ”と言う企画から生まれました。その企画はオンライン上で作家たちが執筆している過程を24時間晒され、合間合間にコメントを挟まれたりなどなど創作過程を見せ物にしていく、と言う企画でした。

まあ、その企画自体の感想に関しては今回あまり関係ないので省きますが、何にせよ、僕は色々な意味で追い詰められていました。そして、そのストレスフルな状態が限界に達して生まれたのが今回の『広すぎた檻』なのです。
なので、実は執筆中のことはよく覚えていません。午前5時ごろ、今まで書いていた戯曲を全て消し、20分ほど瞬きもせずに(比喩です)執筆しました。

何が面白いかというと、この作品は僕自身も考察しがいのある戯曲ということです。
僕の中にすら正解がない。なのに、とても興味が湧いてくる。これは今までにない経験でした。

なので、ここからは僕自身の『広すぎた檻』の考察に入ります。
もしも、『広すぎた檻』を上演したいという方がいらっしゃいましたら参考程度にしていただきたいです。
※上演したい場合必ずDM等々で連絡いただけると嬉しいです。

この作品は一見イヨネスコ風に捉えることができるのですが、本当の根っこの部分はかなりカントール寄りの作品になっているのではないかと思う。
純粋な不条理、という部分以外にも、オブジェとしての、俳優としての、モチーフがいくつか散りばめられていて、それらをどう解釈するか、もしくは何に置き換えるか、によって全く別の作品に仕上がる。

最も重要であろうモチーフは
”蛙””ソーセージ””実験(手術台)”の三つであろう。

今回の企画において
”蛙”=人間の本質
”ソーセージ”=レアリスム
”実験(手術台)”=商品化

と捉えていた。
要は完全に創作者の話、と解釈したわけである。
それゆえに、『作家と蛙』という話をバンズに選んだわけだ。

”蛙”=人間の本質
そもそも”蛙の戦争”というワードはアレハンドロ・ホドロフスキー監督の『ホーリーマウンテン』という作品からインスピレーションを受けているように思う、
映画での”蛙の戦争”はブルジョワジーによる貧困者を使った遊び、戦争という名の遊び、をという印象を受けたが、今作においては人間の本質同士を争わせる、ということに意味があるように感じる。
人間の本質と言っても色々あると思う。最近では、ネットの普及もあってか様々なマイノリティが表に出てくるようになった。少年漫画ですら、バトルに社会風刺が組み込まれている物ばかりになり(これはいいことだと思うが)しかし、それら全てが”面白く”描かれる。決して悪いことではない、しかし、作家にとっては面白く編集されコンテンツとして消費されていくことに不快感を覚えていたのであろうが、いつの間にか、どうでもいい、としか感じられなくなってしまう。

”ソーセージ”=レアリスム
私の中で、1番ソーセージの印象がある映画はゲラルト・カーグル監督の『アングスト/不安』という実はを元にした映画である(次に印象的なのは『ソーセージパーティ』である)。まあ、この映画がレアリスム映画かといえば別にそういうわけでもないと思うが。しかし、世間一般的に受け入れられることのないリアルではなかろうか、と思う。
幕部自身はそのリアルが好きだが、コンテンツ化という点においてはそれを除外する、という姿が幕部自身の中にある矛盾を感じる。
この矛盾をどう扱うか、というのも演出のしがいがある部分ではなかろうか。

”実験(手術台)”=商品化
手術台を学校の机にするか、作家自身にするかによって全く意味合いが変わってくる。学校の机に関しては幼少期をほじくり回されるという感覚に近く、作家自身が手術台をすることはクリエイターの人間性そのものを改造されてしまうことに他ならない。
そして、どちらもコンテンツとして消費されるために”面白い”ものにされていく。
別に悪いことではない。しかし、それしかない世の中は虚しいものはなかろうか、とは思ってしまう。

私は、別に面白いものを産み出さなければクリエイターではない、ということではないと思う。お金になるものでなくても、大勢を動かすものでなくても、作品を産み出したこと、その作品が世に産まれたこと自体に意味があると思う。
何なら、人類全員創作者になった方が良いのだ。それぐらい、創作とは意味のあるものであり消費されるコンテンツでなければいけないものではない。
むしろ、私はそういったものたちを観ていたいと思う。

今回のカンパニーについて

本当に色々な人間が揃ってくれた。キャスティングの1番のこだわりは男性キャストは全員文章を書くまたは書いたことがある人間で固めたことである。
女性キャストも難しかった。作家を演じるキャストに合わせてよりハイリスク(いい意味で)予想もつかないところまで行ってくれそうな質感を持った役者を探していたからだ。
結果としては大正解だったと思う。
彼らは、自分たちの思い描く『広すぎた檻』を稽古場でぶつけ合ってくれたし、何度も何度も議論を重ねてくれた。だからこそ、あそこまで濃密な時間を生み出すことができたのではなかろうかと思う。

今回、キャストたちにずっというかどうか迷っていたことがある。
蛙を文字に変えてしまってからのシーン(実はほとんどアドリブなのだが)、客席という神の視点にも近いところから幕部が見ているという事実を言語化して伝えるかどうか。結果としては伝えなかった。
そして、それは正しい判断だったと思う。もしも、その事実を言語化してしまったら彼らは最後に自由になれなかったと思うし、救われない話になってしまう。
ただ、あの作家たちの判断を幕部が見つめている、その事実だけあればよかった。

まとめ

『広すぎた檻』はどんな作品にもなり得ると思う。だから、色々な人に上演してほしいという願いもあるし、自分でもまたやりたい、とも思う。
ただ、もしも、上演してくださる方がいたらこれだけは約束してほしい。
役者を縛らないこと、彼らを自由にしてあげること
この二つを守ってみてほしい。
きっと、あなた自身にも大きな発見があるはずだから。

いただいたお気持ちは必ず創作に活かします もらった分だけ自身の世界を広げます