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ついていない雨の日と、シネマ歌舞伎「桜の森の満開の下で」のだらだら感想。(20190521)


5月21日

朝。雨がどしゃぶり。こんなにがっつりどっしり雨が降るの久しぶりな気がする。通勤が大変だけれど、植物に水がたっぷり行くので一安心。冷戦中だけれど、母が駅まで送っていってくれた。

今日は、インタビューに始まり、インタビューに終わる日。
お昼にと、昨日の夜の残りの冷やし中華をガラスの容器に入れて持ってきていたのだけれど、朝携帯をリュックから出すときに、それが入った袋を切符売り場の台に置いたら、袋ごと落としてしまった。ちょっと嫌な音したけれど、丈夫な容器だし大丈夫かなーと思っていたのだけれど。職場について確認したら、底が割れていた・・・。あう。
せっかくの冷やし中華!と思い、ガラスの破片を取って救おうとした。そして、食べようかなーと思ったけれど、「まだ入ってるよ!絶対やめなさい-!」と職場の人に言われて、泣く泣く断念。用意した時間や、もったいなさ、他のものを買わなきゃいけない悔しさ・・・。思った以上にショックだったのであります。えーん。いやー、でも言われなきゃ食べて危なかったよなー。

冷やし中華コンビニで買おうと思ったけれど、家の冷やし中華の具の方が断然美味しそうで悔しいので、近くのおにぎり屋さんでガパオ。美味しかった。

英語について、またちょっともやもやしていたこと。
fairness of languages。言語の公平さ。うーん、もうちょっとよい言葉ないのか、探している。個人と個人の間でも、言語間や国の間でも。あー、これ。きっとすごく考えたい。でも言葉に中々出来ない。今は、もやっとした瞬間をとらえて、それを取り出して集めていくしかない。

今日は早出勤だったので、よっしゃー早く上がらせてもらって、築地にいって立ち飲み屋で一杯飲んで、シネマ歌舞伎見ようーと思ってチケットを取っていたら、もう1人18時からインタビューがあったことに気付く。あほー。朝の冷やし中華もそうだけれど、「ついていない」と思う。けれども両方とも完全に自分が引き起こしたことなのです。ええ。

ついている。ついていない。元々は、「運がついている」なのかな。運がついているってどういうことだろう。語源・・・?英語の fortunate とかluckyもちょっと語源を見てみたくなっている。

さて。
シネマ歌舞伎「桜の森の満開の下で」を見に東劇へ。


踊りの先生から、シネマ歌舞伎でぜひ玉三郎さんの楊貴妃をいつか見なさい、と言われて、ホームページを見ていたら、上記の作品を知る。他の劇場ではもう上映終了いていて、東劇と長野の映画館のみで上映延長していました。事前知識はないまま、予告編を見て惹かれて、あ!七之助さんが出てる!となり、見に行くことに。

▼シネマ歌舞伎HPより。

現代演劇界を代表する奇才 野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに書き下ろした伝説の舞台『贋作・桜の森の満開の下』。
1989年に"劇団 夢の遊眠社"により初演されて以来、安吾作品のエッセンスを随所に散りばめた壮大な戯曲、恐ろしいほど妖しく圧倒的に美しい世界感が多くの演劇ファンの心を奪い、常に上演を望む声が聞かれる作品です。

最初タイトルを聞いたときに思い浮かんだのは、星野源の「桜の森」という曲。(ちなみにあとで調べたら、やっぱり野田さんの舞台を見て、この曲を作ったとかどうとか。確かに鬼も出てくるし・・・。歌舞伎を見たあとに、この曲のもつイメージ鮮やかさが増した。嬉しい副産物だった。)

インタビューを終えて、10分ほど遅れて東劇へ。入ると、「(名前)さんですか?」と聞かれてびっくり。確かにオンラインでチケットを購入していたからね。こんな風に映画館で聞かれるの初めてかも。最初は予告編とかやって時間を稼いでくれていないかな~と思っていたけれど、ばっちり本編始まっている。くすん。3人の匠が、王からミロクを彫るよう命じられているシーンから見る。

見始めてすぐは、「わ、わからん・・・」話の設定が謎だったり、現代語で喋っているのに早口で台詞が聞き取れなかったり、あからさまなギャグが苦手だなと思ったりする。

そしてふと歌舞伎や落語という、皆が当たり前のように、日本の元々のエンタメが楽しめなくなっているのってちょっと悲しいなって思った。自分の国のもの、そして言葉で考えられて演じられているのに、他の国のものである例えばハリウッド映画とかの方が、歌舞伎や落語よりも「わかる」というか、面白いの気持ちにつながりやすかったり、下手したらそちらの方に感情はもっと共鳴しているのかもしれない。

でもそれは純粋にアクセスの問題(matter)というか、ただ単に歌舞伎や落語よりも、ハリウッド映画を見る機会の方がきっとほとんどの人にとっては回数が多いから、「わかる」と思うのかな。同じ日本人としての回路を持っているはずだから、例えば落語を何度も聞いていたら、そこに自分につながるものを、もっとちがう深さでわかり合えるもの、つながれるものを見いだせるんだろうか。

あー、でも同じ時代を生きていない、生きているコンテクストが違うっていうことは、もしたら大きい要因なのかもしれない。「何人」っていうのよりも、生きているコンテクストの方が共感のためには大事なのか。うむ。ただ慣れないことで、「わからない」としてしまって、昔の人たちが芸能を通して繋いできた喜びや悲しみなどの感情へアクセス出来る回路が途切れてしまうのは、悲しいなあと思う。

さて。作品に戻りまして。
ようやく姫が出てきた所らへんから楽しくなってくる。そして、わかんなくていいや、と筋を追おうとするのやめる。

夜長姫を演じた、中村七之助さん。


初めて歌舞伎を見に行ったのは、何年だったかは忘れてしまったけれど、浅草の新春歌舞伎で。話はいまいち分からなかったのだけれど、七之助さんの女形の美しさだけは強烈に残っていて。それからずっと、どこかで気になっている。

今回久しぶりに見て、最初登場したときは「あれ?あまり美しくない?」なんて思ったのだけれど、動き喋る夜長姫を見ていると、どんどん宿って、美しくなっていく。この姫は、なんという人なんだろう。何かを超越している、どこまでも無邪気で残酷で。

主人公の耳男を演じていたのは、七之助さんの兄の中村勘九郎さん。耳男と夜長姫が2人でいるシーン。良いとか悪いとか全部ぶっとばして、2人が対峙している瞬間が美しい。

「こまったこまった」

そして舞台のドラマティックさもすごく感じられた。一つ一つの場面が、場面としての完成されている感じ。本当に綺麗だった。そして歌舞伎役者の体の動きの快活さは、見ていてとても気持ちがよいものだ。わざとらしい動きだって、鍛えあげられた彼らの体を通すと芸術になるのです。

さて。監督の野田秀樹さん。私が学生の時にアメリカにいた時に、「赤鬼 Red Demon」という劇を現地の人とやろうとしとしていたことがありました。

この赤鬼もすんごく怖くなるくらい、よく出来ているんです。最後にくるっとひっくり返る。「桜の森の満開の下で」でも鬼が活躍(?)しますが、この赤鬼でも、人間と鬼の境目というか、何が人間と鬼を分けるのか。人が自分以外を排除すること。多文化、とざっくりいってしまうけれど、多分化が「共生」していくために、みんなきっと見たほうがいいと思う物語。私もまた見たい。寓話のようで、今の私たちの話。

今回の作品も終始、日本の昔話や、歴史の下や、人間の中に横たわっている残酷さや不気味さをも感じたな。念。すーっと、ひゅーっと。怒濤のラストを迎えて放心状態。・・・

正直最後まで話は分からなかった!だけれど目を閉じて思い出そうとすると、あの世界に入れる感覚が残っている。すんごい体験だった。

踊りの先生におすすめされていたシネマ歌舞伎。カメラワークで、今注目するべき俳優さんが分かるから、何が起こっているかもわかりやすい。
映画感覚で気軽に見れるし。初心者にはすごく有り難い企画です。他のシネマ歌舞伎も見てみたい。見よう。次は6月後半に、玉三郎さんの鷺姫をきっと見にいきます。坂口安吾の原作も読んでみたいな。きっとkindleにあることを期待。

さてシネマ歌舞伎が終わり、行きたいと思っていた立ち飲み屋。すぐ近くにあったのを見つけるも入れず。外からも中が見えたのだけれど、みんな団体で、テーブルも片付いてなくて、入りづらかった。2回くらいうろうろしてみたけれど、やはり入れる自信はなく、駅近くのこじんまりとした居酒屋さんに入ることに。この入りやすさってなんだろう。メニューの値段もそうだけれど、雰囲気も何かあるよね。

にしんの酢じめと、さつま揚げ。お酒、ほぼ一択で、吉乃川。新潟のお酒。とてもやさしい。料理をぜったい邪魔しませんよー、っていう一歩下がった感じがある。

HPもみてみた。酒造りに関わる色々な仕事がわかって面白かった。

あとお隣さんが頼んでいて食べたくなった塩むすびも最後に食べました。おいしかった。ごちそうさまでした。

もうちょっと飲みたくなり、乗り換え駅の紀伊國屋で、カップ酒。普段カップ酒って美味しくなさそうで買わないけれど、惹かれて買ってみる。一口飲んだ瞬間、甘酒のような感じ。これがフルーティーなのかな?あんまりいっぱいは飲めないかなぁ。

ボックス席で飲みながら、「桜の森の下の満開の下で」の感想を見ながら、思い出して、ちょっとうるっとしながら帰る。

・・・そして電車を降りた瞬間、傘を置いてきたことに気付く。あほー。やはりついていない日だったのでしょうか。

よーし、また明日!

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