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ある記事を読んで、子供の人格否定について考えた

本日は、いつもと少し違うアプローチで文章を書いてみようと思います。

というのも昨日、

親から人格を否定されたら、子供はどうなってしまうのか

という記事を読んだのですが、自分の境遇や親との関係を照らし合わせた時に、色々と思う部分がありました。そこで、自分の考えや親にして欲しかったことを文章にしてみようと思ったわけです。

※私には子供がいないので、バッタモン家族にいた頃の子供目線・今現在の自分の目線を元に意見を書きます。もしかしたら偏りがある物言いになってしまうかもしれませんが、あしからず。


【記事の内容をふりかえる】


さて、この記事のポイントを絞ると、以下のようにまとめられると思います。

・親の発言が子供に与える影響は大きい
・子供を注意する時は人格否定をしないようにする言葉をかける
・親の言葉が子供の内なる声になる

また、子供を注意する時に”人格否定”にならない言葉かけとして、「あなたらしくない」という代替フレーズが挙げられていました。子どもをやりこめるのではなく、”普段はもっとお利口さんだね”という意図を含んだ言い方をすることで、本人のモチベーションをあげてあげるものだと書いています。

全体的には、そういうアプローチもあるのだな、というのが私が記事に対してもった印象です。それは、自身の生い立ちがいたたまれないものだったためか、今の自分のものの見方が少し大人になったからなのか、共感できる部分と、この記事の内容とは少し違う意見の部分とがありました。


【「あなたらしくない」は逆効果なのでは?】

「あなたらしくないね」

私が、この記事の中で一番違和感をもったのが、このフレーズです。

確かにこの諭し方は、”自分らしさ”を見つけていっている途中の子供には良くも悪くも自分のことを深く考えるきっかけになるのかも。親の認めている”あなたらしさ”に沿って歩けば、道を踏み外すことは無いよ、と言うふうにも取れます。

ただ、子供によると思うのですが…「あなたらしくない」と言われると、親の期待を背負って逆に「(親が思う)”自分らしい自分”でいなきゃいけない」と思うような気がします。

私なら、親の思うイメージを壊せば、嫌われるかもしれないと考えて、悪いことや考えを隠すかもと思ってしまいました。それに、この言葉を親が使うとしたら、親自身も「(子供の)自分らしさ」が何かを子供に説明できないと説得力がないように思います。そうでなければ、親が思う”らしさ”の押し付けになってしまいそうな…

私の場合、親しい友人や旦那さんに「あなたらしくない」と言われたら、モヤっとします。私が自分「らしさ」を分かっていないのに、他の人が本当の私らしさを知っているはずがないから。私の心の奥底までは見えないのに、なんでそういう事が言えるの?って疑問が浮かびます。


【人格否定をされた私が受けた影響は?】

さて、日々人格を否定され続けて育ってきた私としては、振り返ってみると、どんな影響があったでしょうか?

・挑戦すること、間違うことが怖い…果ては殺されると感じる

小学校低学年までは「根性叩き直したるわ!」と言われ、文字通り、叩かれていました。小さなミスですら、「お前は間違ってる。できそこない」、「なんでお前みたいな、しょーもない娘が生まれてきたんやろうか?」と言われていました。

そういう事を言われ続けると、何かを間違うのも、挑戦するのも怖くて仕方なくなります。一度でも、何か失敗すれば親に殺されるんじゃないかと思っていました。好奇心や楽しいことを探すのを諦めて、親の機嫌を損ねないようにすることだけを考えて生活していました。

・人との関係の築き方が分からないから、人を信頼できない

常に怒られて、存在を否定されていたから、「私は誰かに蔑ろにされて当然」と思っていました。みんな心のウラでは私のこと好きじゃない、と変な思い込みがありました。親切にされても疑いが先に来て、人を好きになっても愛されていいのか?考えると、心休まる日がありませんでした。

・私の「行い」を注意されたら、「人格を否定」されたと感じる

最近まで、旦那さんに何か注意を受けると、「私はやっぱりアカン子」やと悲しくなって泣いていました。今まで、私の中での「否定」と言えば、人格否定一択だったため、少し「気をつけてね」と注意されることですら、頭の中に刷り込まれた親の怒声が聞こえてくるきっかけになっていたのです。

ちなみに、旦那さんは「Mai自身を否定しているんじゃないよ。行動に注意しただけやから、自分はアカン子って思ったらアカンよ」と辛抱強く説明してくれました。私も少しずつ「これは、私自身の否定じゃない」と思えるようになりました。

・なぜ失敗したのか、間違ったのか?を考える前に、「私は人間としてダメ」という結論に至る

きっと両親も怒鳴る、殴る以外の方法を知らなかったのだと思います。自分のことで精一杯だから、子供の問題に時間を割く余裕はなかったのでしょうね。

例えば私は小学4年生になっても、たまにおねしょをしていました。寝る前に水分を摂らないようにして、必ずトイレに行くように心がけても、何度かおねしょをしていました。

それを継母に見つかる度に

「はぁ?また?いい加減にしてよ!洗濯物増えるやんか!なんで、おねしょすんのよ!」

と怒鳴られていました。継母の罵声を聞きながら、おねしょのことを怒られるよりも、「洗濯物が増える」と言われるのが悲しかったのを覚えています。私よりも自分の家事が増える心配をするんだな、と胸がチクッとしていました。

そのうち父は、継母のキィキィと怒鳴る声に反応しイライラしだして喧嘩をおっぱじめるのです。毎度、一連の様子を目の当たりにして、両親が喧嘩するのは自分のせいだと思っていました。

そして、もう親に喧嘩をさせないために、「今日こそはおねしょしないぞ」と自分にプレッシャーをかけながら寝ると、また漏らしてしまうのです。(でもなぜか分かりませんが、ある日ピタッとおねしょはしなくなりました。今思えばストレスだったのかもしれません。)

こうして、何がいけないのか、何を間違ったのか、どうすれば次も同じ間違いを繰り返さなくて済むのだろうか?そんな事を教えてもらう前に、「自分はダメな子、いつも親の喧嘩の原因になる邪魔な子」という結論に至るようになりました。悪いことは、その原因を考える前に、何でもとりあえず自分のせいだ、と思うようになってしまいました。

【私が親にして欲しかったこと】

そんなことを踏まえて振り返ってみると、私が親に望んでいたことは、結局とてもシンプルなことだったのかも知れません。

 「あなたはどうしたいの?」
 「なんでそう思うの?」
 「何が良かったかな?何が悪かったかな?」

そう聞いてほしかったですね。「あなたらしくない」の手前に、自分はどう考えているのか気づくきっかけになるような質問をして欲しかったと思います。「なるほど、わたしはこういう風に考える人なんだ」という積み重ねが、結局”自分らしさ”になっていくのではないでしょうか。

これは私の旦那さんがよくしてくれることなんです。私の発言の良し悪しに関わらず、彼は必ず私の考えがどこから来て、どういう経緯でその考えに至ったのかを聞いてくれます。それから、彼なりの意見や注意やアドバイスをくれます。

本当に、親にもそうしてもらいたかったです。叩いたり、怒鳴ったり、頭ごなしに否定するんじゃなくて。小学生くらいになると、子供の個性に基づいた考えや気持ちがあります。大人には見えてないことが、子供には見えていることもあります。

子供の意見がはっきりしてきたら、一人の「人」として向き合い、話をすることで、子供は「信頼されている」と自信がつくんじゃないかな。そして、外からの色んな刺激を受けて、色んなことを考え、意見して、心の成長に繋がるのではないかなと思います。

みなさんはどう思いますか?子供を持つ方の目線、それ以外の目線も、あればぜひ聞いてみたいです。

サポートありがとうございます。