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『運が良いとか悪いとか』(9)

(9)

人間意識が世界を語ることの意義に出会うに
は(語らざるを得なくなるのは)、シンボル思
考と事実認識とがそれぞれに蓄積され高度化
し、両者の開きがイヤでも自覚に上るように
ならなくてはならない。

ここで事実認識というのは、最初から(これ
は事実である)と何かを認めることではない。
そんな働きはそもそも人間意識にはないのだ。

たとえば動物としての人間は山中の洞穴や岩
場の洞穴が住処になり得ることを認め、そこ
を自らチェックしてさらにその条件を確かめ
認識を得たりするが、これは動物としての人
間の身体生理の延長上の高度な動物意識がそ
ういう判断 をしているのであって、この論議
で言うような「事実認識」ではまったくない。

ここで言う事実認識とはむしろシンボル思考
の派生物であり、シンボルに対する(間接的
な身体性からの打ち消し)である。従ってこ
こで言う事実認識は、シンボル思考が発生し
てからでなくては生まれない。

たとえば、シンボル思考においては神々しさ
を纏った存在であるあの鳥が、別の場面では
当たり前のように他の生き物の餌食になって
しまうことがある。このことは動物意識も認
識する。つまり動物としての人間にとっては、
どんなに鮮やかなハンティングをする鳥であ
ろうとそれ自身が他の生き物の餌食になって
しまうことが当然ある(と認められる)。

だから動物としての人間はそういう場面を目
撃しても、ただ自分が生きていく上での必要
度に応じてその経験を記憶するかあるいは忘
れるだけである(身体性がそれを決める)。

ところがひとたびシンボル思考においてこの
鳥が神々しいものを纏うと、その鳥も場合に
よっては餌食になるというただそれだけのこ
とが、神々しいものの真向いに置かれ、その
対照ゆえに事実(という観念)になる。

(ただ、そういうものとしてある)
あるいは
(ただ、そういうことが起こる)
というだけの現象が、神々しいものとの対照
でシンボルに対する否定的なものをまとって
観念領域に出現する。

今のわたしたちは外界で当たり前のように繰
り返され目撃や経験の容易な事柄がまず事実
として認識され、これらを前提にそこから突
出する何か異様なもの、たとえば神々しい何
か神秘的な何かが認識される……といった認
識の筋道の方が人間にとって自然であるかの
ように思っているが、人間意識の原初では事
情が逆転して いる。

シンボル思考が、動物意識がそのまま受け止
めている事柄をシンボルに対する否定的なも
のとして観念にしてしまうのである。それが
事実というものの起源なのだ。そうしてこれ
も人間意識による身体性の取り込みの一つだ。

ただしそれは、言語の発生の際に働く身体性
の取り込みが直接的であるのに対して間接的
である。
「おあ」
とか
「おあああ」
だのの得体の知れない発声は観念に浴びせた
身体性からの否定の結果として直接人間の肉
体を通したもの(=発声)になっているが、
上記の事実認識はそのように観念一般(シン
ボル思考全般)に対して否定を浴びせるもの
ではなく、或る個別の観念の中味に対して否
定を浴びせる。

繰り返すが
「おあ」
でも
「おあああ」
でもそれらはわたしが思いつきを並べただけ
のものだが、それでももしこれらの類が言語
の原初にあったならば、それらはこの発声の
物質性をのちのちまで原型として保持してい
く。身体性からの否定が直接的だからだ。

またこの直接性はシンボル思考(観念=異和)
が個体を飛び越えて伝達(コミュニケーショ
ン)を志向するので、個体の身体がそれに否
定を浴びせているという意味の直接性だが、
他方でシンボル思考は個体の内で持続しよう
ともする。

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